イザヤ 10:12 主はシオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就されるとき、アッシリアの王の驕った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる。
10:13 なぜならアッシリアの王は言った。「自分の手の力によってわたしは行った。聡明なわたしは自分の知恵によって行った。わたしは諸民族の境を取り払い 彼らの蓄えた物を略奪し 力ある者と共に住民たちを引きずり落とした。
10:14 わたしの手は、鳥の巣を奪うように 諸民族の富に伸びた。置き去られた卵をかき集めるように わたしは全世界をかき集めた。そのとき、翼を動かす者はなく くちばしを開いて鳴く者もなかった。」
10:15 斧がそれを振るう者に対して自分を誇り のこぎりがそれを使う者に向かって 高ぶることができるだろうか。それは、鞭が自分を振り上げる者を動かし 杖が木でない者を持ち上げようとするに等しい。
10:16 それゆえ、万軍の主なる神は 太った者の中に衰弱を送り 主の栄光の下に炎を燃え上がらせ 火のように燃えさせられる。
10:17 イスラエルの光である方は火となり 聖なる方は炎となって 一日のうちに茨とおどろを焼き尽くされる。
10:18 森も牧場も魂から肉まで焼き尽くされ くずおれて、倒れる。
10:19 森に残る木は数少なく 幼子でもそれを書き留めうる。
10:20 その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。
詩篇 119:169 主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。御言葉をあるがままに理解させてください。
119:170 わたしの嘆願が御前に達しますように。仰せのとおりにわたしを助け出してください。
119:171 わたしの唇から賛美が溢れるでしょう あなたが掟を教えてくださいますから。
119:172 わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう あなたの戒めはことごとく正しいのですから。
119:173 あなたの御手はわたしの助けとなるでしょう あなたの命令を選び取ったのですから。
119:174 主よ、御救いをわたしは望みます。あなたの律法はわたしの楽しみです。
119:175 わたしの魂が命を得てあなたを賛美しますように。あなたの裁きがわたしを助けますように。
119:176 わたしが小羊のように失われ、迷うとき どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません。
ヨハネ 7:25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。
7:26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。
7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。
7:29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
7:30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。
7:31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。
7:32 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。
7:33 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。
7:34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」
7:35 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。
7:36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」
イエス様は公然とご自分が旧約聖書で預言されていたメシアとして来られたお方であることを語られた。
しかし、エルサレムに住む人々は、ガリラヤ出身の大工の子に過ぎないイエス様ガメシアであるはずがないといって否定し、イエス様の言動を拒絶してしまうのである。
彼らとしては、イスラエルを救うメシアは、律法の言葉にも精通したもので、ダビデの王家から出る偉大な人物といったイメージを抱いていたことであろう。
しかし、それはあくまで彼らの勝手な解釈であって、神から遣わされた本物のメシアがそこにいても、全く受け入れようとせず、イエス様を捕らえて殺そうと考えるようになっていったのである。
しかし、それが神から遣わされた真のメシアの姿であり、イエス様は、こういったユダヤ原理主義とも言えるような人たちの手によって十字架にかけられ、殺されたのである。
そして、三日目によみがえり、天に昇り、今もなお神の御座において、私たちのためにとりなして下さっている。
このような御業は、神の御子イエス様にしかできないことであり、この方のおかげで、私たちのような愚かな罪人も救っていただけるのである。
たとえ、私たちのうちに、何一つ神の御心に適うことができなかったとしても、イエス様の十字架の贖いの御業のゆえに、罪赦され、神の子として御国に招いて下さるのである。
このようなイエス様をまことのメシア救い主として私たちは信じている。
メシアとは、十字架の上で、私たちの身代わりとして、傷つき、体を裂き、血を流し、息を引き取られたお方。
とても「栄光の王」といった姿ではないかもしれないが、見るも無残な十字架上のイエス様にこそ、私たちの本当の救いがあることを覚え、いつもイエス様を見上げて歩んでいきたいものである。