列王上 13:11 ベテルに一人の老預言者が住んでいた。息子の一人が来て、神の人がその日ベテルで行ったすべてのこと、王に向かって告げた言葉を語り聞かせた。息子たちがそれを父に語り聞かせると、
13:12 父は、「その人はどの道を行ったか」と尋ねた。息子たちは、ユダから来た神の人がどの道を行ったか見ていた。
13:13 老預言者は息子たちに、「ろばに鞍を置くように」と言い、彼らがろばに鞍を置くと、そのろばに乗り、
13:14 神の人の後を追った。彼は樫の木の下で休んでいる神の人を見つけ、「ユダからおいでになった神の人はあなたですか」と問うた。その人は「わたしです」と答えた。
13:15 老預言者は、「一緒にわたしの家に来て、食事をなさいませんか」と勧めたが、
13:16 彼は答えた。「一緒に引き返し、一緒に行くことはできません。ここで一緒にパンを食べ、水を飲むことはできません。
13:17 主の言葉によって、『そこのパンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻るな』と告げられているのです。」
13:18 しかし、老預言者は言った。「わたしもあなたと同様、預言者です。御使いが主の言葉に従って、『あなたの家にその人を連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませよ』とわたしに告げました。」彼はその人を欺いたのである。
13:19 その人は彼と共に引き返し、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。
13:20 彼らが食卓に着いているとき、神の人を連れ戻した預言者に主の言葉が臨んだ。
13:21 彼はユダから来た神の人に向かって大声で言った。「主はこう言われる。『あなたは主の命令に逆らい、あなたの神、主が授けた戒めを守らず、
13:22 引き返して来て、パンを食べるな、水を飲むなと命じられていた所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは先祖の墓には入れられない。』」
13:23 神の人がパンを食べ、水を飲んだ後、老預言者は連れ戻したその預言者のろばに鞍を置いてやった。
13:24 その人は立ち去ったが、途中一頭の獅子に出会い、殺されてしまった。なきがらは道に打ち捨てられたまま、ろばがその傍らに立ち、獅子もそのなきがらの傍らに立っていた。
13:25 そこを通りかかる者があって、道に打ち捨てられたなきがらと、傍らに立つ獅子を見、老預言者の住んでいる町に来てそのことを話した。
詩篇 119:169 主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。御言葉をあるがままに理解させてください。
119:170 わたしの嘆願が御前に達しますように。仰せのとおりにわたしを助け出してください。
119:171 わたしの唇から賛美が溢れるでしょう あなたが掟を教えてくださいますから。
119:172 わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう あなたの戒めはことごとく正しいのですから。
119:173 あなたの御手はわたしの助けとなるでしょう あなたの命令を選び取ったのですから。
119:174 主よ、御救いをわたしは望みます。あなたの律法はわたしの楽しみです。
119:175 わたしの魂が命を得てあなたを賛美しますように。あなたの裁きがわたしを助けますように。
119:176 わたしが小羊のように失われ、迷うとき どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません。
コロサイ 3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
3:5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
3:6 これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。
3:7 あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。
3:8 今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
3:9 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
3:10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
3:11 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
列王記の箇所には、老預言者が、自分のところに神の祝福を導きたいがために、神の人を欺いて自分の家に招いた結果、来た道を後戻りしてはならないと命じられていた神の人に過ちを犯させてしまい、結果、神の人が死んでしまったことが記されている。
悪いのは偽りの言葉を持って神の人を誘惑した老預言者であるが、その言葉を信じて従った神の人が裁かれることになる。
何とも言えない出来事であるが、神の国の働きに携わるということは、後戻りすることはできないということであろう。
そもそも私たちは、この世の滅びゆくしがらみの中から、神の憐れみにより、神に選びだされ、救われたものである。
自分の意思で、自分の決断と行動で、滅びの穴から出てきたように思い違いをしているかもしれないが、我々人間に、そのような力などなく、ただただ、神の恵みの御業によるものである。
だから、もともと弱いものであるから、再び罪の誘惑に落ちてしまう危険性を持っていることも確かであろう。
しかし、再び罪の世界に戻ったところで、そこにどんな幸いがあるというのだろう。
そんなことをしても、おそらく、前よりももっと酷い状態となるだけであろう。
私たちは神の恵みにより、この世から救い出されたものとして、新しくされた者である。
ともすると、教会も、この世的な価値観の中で建て上げて行こうとしがちであるが、私たちは目に見えないものを求めているのだから、教会の成長も、この世の成功と同列に扱うのではなく、どんなに貧相に見えたとしても、十字架の上で血を流し、体を裂かれ、処刑されたイエス様の姿にこそ、真の祝福と幸い、神の国があることを覚えたい。
仮に思うように行かない事や困難なことがあったとしても、前を向き、イエス様を見あげ、一歩ずつでもいいから、新しくされた者としての歩みを続けて行きたいものである。