イザヤ 30:27 見よ、主の御名は遠くから来る 怒りに燃え、立ち昇る濃い煙を伴って。その唇は憤りに満ち 舌は焼き尽くす火のようだ。
30:28 主の霊は、首にまで達する水が 涸れ谷にみなぎり溢れるように臨む。主は国々を欺きのふるいでふるい 迷わす手綱を諸国民の顎にかけられる。
30:29 あなたたちは祭りを祝う夜のように歌い 笛に合わせて進む者のように心楽しみ 主の山に来て イスラエルの岩なる神にまみえる。
30:30 主は威厳ある声を聞かせ 荒れ狂う怒り、焼き尽くす火の炎 打ちつける雨と石のような雹と共に 御腕を振り下ろし、それを示される。
30:31 主がその鞭をもって打たれるとき アッシリアは主の声のゆえにおののく。
30:32 主が彼に下そうと定められた 杭の一打ちごとに 太鼓と竪琴が鳴らされ 主は御腕を振るって彼らと戦われる。
30:33 焼き場は既に用意され 王のために深く広く造られ 燃やすための木が積まれ 多くの薪が置かれ 主の息が焼き尽くす硫黄の流れのように そこに臨む。
詩篇 146:1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
146:2 命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう。
146:3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
146:4 霊が人間を去れば 人間は自分の属する土に帰り その日、彼の思いも滅びる。
146:5 いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人
146:6 天地を造り 海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は
146:7 虐げられている人のために裁きをし 飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち
146:8 主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
146:9 主は寄留の民を守り みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
146:10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。
ローマ 2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
2:3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
2:7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
2:8 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
2:11 神は人を分け隔てなさいません。
神の御心は、私たちが神を信じ、神と人とを愛するようになることにある。
だから、仮に人がどんなに正しいことを行っていたとしても、そのために他者を裁いたり批判したりしているようでは、もはやそこでは神の御心が損なわれていることになる。
ファリサイ派や律法学者の人たちが、自分たちこそ神の教えを完全に守っていると自負し、周囲の人間を見下していたのも同様に、神の御心を損なっていたのである。
私たち人間は、神に教え、特に律法の言葉を聞き、自分の罪を思い知らされ、神のもとに救いを求め、イエス様の十字架の贖いによる救いの約束に与るようになることが神の望まれた導きであり、間違っても律法に命じられていることを全て行えているなどと思い上がってはいけない。
特に、他者に対して裁いたり批判したりすることもそうであるが、怒りの感情や憤りを覚えているような時は注意が必要である。
錨や憤りは、神に代わって自分が裁いているから起きていると言えるだろう。
もちろん、正しい怒りもあるのかもしれないが、それは、正しく裁かれるお方にお任せするのが好ましい。
怒りや憤りの感情に支配されそうな時は、私たち自身で裁きを下そうとせず、主に委ね、私たち自身はその人を憐れんであげるようにすべきであろう。
これがなかなか難しいことだが、そもそも私たち自身、他人を裁く資格などないというのが事実であり、それこそ、正しく自分を見つめなおすことが何よりもまず最初に行うことなのだろうと思う。
ローマ 3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:11 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
3:14 口は、呪いと苦味で満ち、
3:15 足は血を流すのに速く、
3:16 その道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。
3:18 彼らの目には神への畏れがない。」
3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。