ネヘミヤ 9:16 ところが、わたしたちの先祖は傲慢にふるまい かたくなになり、戒めに従わなかった。
9:17 聞き従うことを拒み 彼らに示された驚くべき御業を忘れ かたくなになり エジプトの苦役に戻ろうと考えた。しかし、あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに溢れ 先祖を見捨てることはなさらなかった。
9:18 彼らが牛の像を鋳て造り エジプトから救ってくれた神だと称し 背信の大罪を犯したときも
9:19 まことに憐れみ深いあなたは 彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった。昼は雲の柱を取り去ることなく行く手を示し 夜は火の柱を取り去ることなく 行く道を照らされた。
9:20 あなたの優れた霊を授けて彼らに悟りを与え 口からマナを取り上げることなく 渇けば水を与えられた。
9:21 四十年間、あなたが支えられたので 彼らは荒れ野にあっても不足することなく 着物は朽ち果てず、足もはれることがなかった。
9:22 諸国、諸民族を彼らの支配下に置き 分け与えて国境に住まわせられた。ヘシュボンの王シホンの国も バシャンの王オグの国も彼らの所有となった。
9:23 その子らの数を天の星のように増やし 行って所有せよと先祖に約束された土地に 彼らを導き入れられた。
9:24 その子らはその地に入り、これを所有した。あなたはその地の先住民カナン人を服従させ 彼らの支配下に置かれた。その地にいた諸民族とその王たちを 彼らは思いのままにあしらった。
9:25 堅固な町々、肥沃な土地を奪い すべての良きものに満ちた家 貯水池、ぶどう畑、オリーブと果樹の園を 数多く手に入れた。彼らは食べて飽き、太り 大きな恵みを受け、満足して暮らした。
9:26 しかし、彼らはあなたに背き、反逆し あなたの律法を捨てて顧みず 回心を説くあなたの預言者たちを殺し 背信の大罪を犯した。
9:27 あなたは彼らを敵の手に渡し 彼らを苦しめられた。彼らが苦難の中から叫び声をあげると あなたは天にあってそれを聞き 豊かな憐れみをもって、次々と救い手を送り 苦しめる者の手から救い出してくださった。
9:28 しかし、平穏になると 彼らは再び御前に悪を行ったので あなたは彼らを敵の手に任せ その支配下に落とされた。彼らが再び叫び声をあげると あなたは天にあってそれを聞き 豊かな憐れみをもって彼らを救い出された。
9:29 律法に立ち帰るようにと あなたは彼らに勧められたが 彼らは傲慢になり、御命令に耳を貸さず あなたの法に背いた。これを守って命を得るはずであったが 彼らは背を向け、かたくなになり 聞き従おうとしなかった。
9:30 長い年月、あなたは忍耐し あなたの霊を送り 預言者によって勧められたが 彼らは耳を貸さなかったので 諸国の民の手に彼らを渡された。
9:31 しかし、まことに憐れみ深いあなたは 彼らを滅ぼし尽くそうとはなさらず 見捨てようとはなさらなかった。まことにあなたは恵みに満ち、憐れみ深い神。
詩篇 119:97 わたしはあなたの律法を どれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。
119:98 あなたの戒めは わたしを敵よりも知恵ある者とします。それはとこしえにわたしのものです。
119:99 わたしはあらゆる師にまさって目覚めた者です。あなたの定めに心を砕いているからです。
119:100 長老たちにまさる英知を得させてください。わたしはあなたの命令を守ります。
119:101 どのような悪の道にも足を踏み入れません。御言葉を守らせてください。
119:102 あなたの裁きから離れません。あなたがわたしを教えてくださるからです。
119:103 あなたの仰せを味わえば わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。
119:104 あなたの命令から英知を得たわたしは どのような偽りの道をも憎みます。
エフェソ 6:21 わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。
6:22 彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。
6:23 平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。
6:24 恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。
旧約聖書の歴史をたどっていくと、イスラエルの民が、何度も何度も神に対して背信したにも関わらず、それでも神は見捨てることをなさらず、憐れみ深くイスラエルを導き、祝福しようとされたことが伺える。
もちろん、出エジプトの時代に生きた者たちがカナン侵攻の時代まで生きていたわけではないし、士師の時代に生きた人たちがダビデやソロモンの時代まで生きていたわけではないから、神の憐れみを受けたことが時代と共に忘れ去れてしまう事は、ある意味仕方がないことなのかもしれない。
けれど、それは、時代や世代のせいだけでもない。
出エジプトを経験した者たちは、すぐに金の子牛を造り、それを神として拝むようなことをしているし、士師の時代も、ダビデ王朝の時代の人たちも、様々な困難な出来事が起き、神の御業によって助けられても、のど元過ぎれば熱さを忘れるごとく、すぐに神の恵みの御業を忘れてしまうのである。
なぜ人間はこうも忘れっぽいのか。
忘れっぽいというより、自己中心であるだけなのであろう。
困ったときは神に助けを求め、平穏な時が続けば、神など必要ないかのごとく振舞い、果ては、神に背いてまで自分自身の思いを優先しようとするのである。
困った時の神頼みなら誰もができること。
むしろ、平穏な時、何も問題がない時にも神を慕い求め生きて行くことが本当は大切なのかもしれない。
日常の暮らしが守られ、平穏に過ごしていられるならば、それは幸いなことであるが、何より神の祝福がなければ、そのような状態は保たれない。
どのような時も、変わることなく神の御声に聞き、神と共に歩む日々を過ごしていきたいものである。