ゼカリヤ 9:14 主は彼らの前に現れ その矢は稲光のように飛ぶ。主なる神は角笛を響き渡らせ 南からの暴風と共に進まれる。
9:15 万軍の主は彼らの盾となられる。放たれた石は敵に食らいついて倒し 血をぶどう酒のように飲み 鉢や祭壇の四隅のように血で満たされる。
9:16 彼らの神なる主は、その日、彼らを救い その民を羊のように養われる。彼らは王冠の宝石のように 主の土地の上で高貴な光を放つ。
9:17 それはなんと美しいことか なんと輝かしいことか。穀物は若者を 新しいぶどう酒はおとめを栄えさせる。
10:1 春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は稲妻を放ち、彼らに豊かな雨を降らせ すべての人に野の草を与えられる。
10:2 テラフィムは空虚なことを語り 占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。その慰めは空しい。それゆえ、人々は羊のようにさまよい 羊飼いがいないので苦しむ。
詩篇 100:1 賛歌。感謝のために。 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
100:2 喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。
100:3 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。
100:4 感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。
100:5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ。
使徒 20:17 パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。
20:18 長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。
20:19 すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。
20:20 役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。
20:21 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。
20:22 そして今、わたしは、”霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。
20:23 ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。
20:24 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
20:25 そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。
20:26 だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。
20:27 わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。
20:28 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。
20:29 わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。
20:30 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。
20:31 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。
20:32 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。
20:33 わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。
20:34 ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。
20:35 あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
20:36 このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
20:37 人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。
20:38 特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。
使徒20章の箇所には、エフェソの長老たちに対するパウロの惜別の説教が記されている。
おそらく今後もう二度と会う事はできないだろうエフェソの人たちのことを思い、エフェソの町の教会に属する人たちが生ける真の神様の救いの約束から離れることなく、信仰を保ち続けて行くことができるよう、長老たちにその働きを委ね、励まそうとしたのであろう。
長老というのは、その群れの中の中心的な人たちであり、群れを導くリーダー的存在であった。
伝道者や宣教者といった専門的な職務についているわけではなく、他の信徒たちと何ら変わりはない普通の信徒であったが、どの教会でも、そういった人たちの存在が教会を守り、導き、建て上げて行く上で、豊かに用いられていったのであろう。
私たちの所属する教会にも、長老という制度がある。
長老とは信徒リーダーのようなものであるが、普通の信徒でありながら、可能な限り主イエス様のことを証したり、御言葉を解き明かすこともできる人たちである。
本来、信徒というのは、みなそういう者となるべきであるし、救われた一人一人が長老のようになっていくことが教会の働きを進めて行く上では重要である。
もちろん、長老と言う立場や役職のようなものに必ずしもこだわる必要はないが、信徒一人一人が救われた者としてどう生きて行くかということを考えた時、長老の務めというのは、誰もが目指していくべき、信徒としてのあるべき姿なのであろうと思う。
そのように考えながらパウロの惜別の説教を見て行くと、私たち一人一人が自分に向けて語られている言葉であるということが見えてくるのではないだろうか。
牧師や宣教者、あるいは、長老といった人たちを含め、一部の人たちだけに責任を押し付けて終わりではなく、信徒一人一人がイエス様から救いの約束を頂いたものとして、誇りと責任を持って、自分はどうあるべきか、どう生きて行くべきかを模索しながら、イエス様の尊い犠牲によって罪赦され、聖なるもの、神のものとされた者として、神との一対一の関係において一人の信仰者として歩ませていただきたいものである。
エフェソ 20:32 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。