創世記 2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、
2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
2:10 エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。
2:11 第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。
2:12 その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。
2:13 第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。
2:14 第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。
詩篇 130:1 都に上る歌。 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
130:2 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
130:3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。
130:4 しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。
130:5 わたしは主に望みをおき わたしの魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます。
130:6 わたしの魂は主を待ち望みます 見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして。
130:7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。
130:8 主は、イスラエルを すべての罪から贖ってくださる。
ルカ 8:4 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。
8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
8:6 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。
8:7 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。
8:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
8:9 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。
8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」
8:11 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。
8:12 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。
8:13 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。
8:14 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。
8:15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」
主なる神様はこの世界を創られた時、その素晴らしい世界を管理し、そこに生きる喜びを味わうことができるように、人を創り、そこに置かれたのであろう。
そこには「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ」と記されているように、人が生きていくために必要なものは何一つ過不足なく全て揃っていた。
しかも「園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」とも語られており、この世界が神の祝福に満ちた場所であったことが伺える。
しかし、人間は、主なる神様が取って食べてはならないと命じられた善悪の知識の木から取って食べてしまい、罪を犯してしまうのである。
ある人は、そんなものをそこに生えさせておくから、人間が食べたくなるのであって、そもそも神様がそこに知識の木を生えさせられたのは悪いという風に考える人がいるかもしれない。
けれど、それは間違いであり、主なる神様は、御自分の栄光を現わすものを、人の目にも見える形でそこに置き、人がそれを敬い、尊ぶことを願っておられたのであろう。
残念ながら、人間は、自分もあの善悪の知識の木から取って食べれば、神のようになれるかもしれないと考え、約束を破ってしまうのだが、それは神の不可侵の神聖な領域へ人間が土足で踏み込もうとしたことと言えるだろう。
善悪の知識の木が人間の目に見えるとことにあったことが問題なのではない。
むしろ、本来ならば神と人間との間を隔てておかなければならない神聖なものが、人間の目に見えるところ、人間の住む世界にあること自体が素晴らしいことであり、驚くべきことであり、感謝すべきであるのではないだろうか。
神の御子イエス様が私たちの住む人間の世界に人として来てくださったことも同様であろう。
本来なら、そこに住むことなどありえないお方が、私たちと同じ人間として生きて下さったのである。
しかも、そこに生きる人間を救うために、自らの命を犠牲にして贖われるために、イエス様はその生涯を捧げられたのである。
私たちは、この救い御業を実現されたイエス様を、聖書の御言葉を通して聞き、十字架を見上げては思い起こすのであるが、目に見える形で、このような幸いな約束が私たちの住む世界にもたらされていることを感謝したいものである。