イザヤ 28:9 誰に知るべきことを教え お告げを説き明かそうというのか。乳離れした子にか、乳房を離れた幼子にか。
28:10 「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ (命令に命令、命令に命令) カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ (規則に規則、規則に規則) しばらくはここ、しばらくはあそこ」と 彼らは言う。
28:11 確かに、主はどもる唇と異国の言葉で この民に語られる。
28:12 主が彼らに言っておかれたことはこうだ。「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」と。しかし、彼らは聞こうとはしなかった。
28:13 それゆえ、主の言葉は、彼らにとってこうなる。「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ (命令に命令、命令に命令) カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ (規則に規則、規則に規則) しばらくはここ、しばらくはあそこ。」彼らは歩むとき、つまずいて倒れ 打ち砕かれ、罠にかかって、捕らえられる。
詩篇 130:1 都に上る歌。 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
130:2 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
130:3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。
130:4 しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。
130:5 わたしは主に望みをおき わたしの魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます。
130:6 わたしの魂は主を待ち望みます 見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして。
130:7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。
130:8 主は、イスラエルを すべての罪から贖ってくださる。
1ペテロ 4:7 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
4:9 不平を言わずにもてなし合いなさい。
4:10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。
4:12 愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
4:14 あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
4:15 あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。
4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。
4:17 今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
4:18 「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。
4:19 だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。
聖書の歴史において、イスラエルの民は神の御言葉を賜わったことを誇りに思い、特に、モーセを通じて神から賜った神の戒めをことのほか重視し、いつしか、そこに語られている戒めを守る事だけが全てのような生き方に変わっていった。
それゆえ、新約聖書の中にも見られるように、律法の戒めを守ることのできない者たちをさげすんだり、迫害したりしていたのであろう。
イエス様の十字架がその最たるもので、イエス様が御自分のことを「神の子」と称したとして、御名を汚したものとして迫害し、ついに十字架の刑に処したのである。
律法、あるいはルールといったものは、その時代において、何等かの背景や目的があって定められたものであることが多い。
当然、時代や環境が変われば、その時代にそぐわない時代錯誤のルールとなってしまうこともある。
あるいは、新たにルールが変更されたりすると、これまでは正しいとされていたことや、問題とはならなかったことが、違反となったり、問題となったりすることもある。
時代の変化の中で、様々なことが変わっていくことは仕方がないが、その都度、生き方まで翻弄されていくのは、ある程度避けられない事かもしれない。
その時、どう生きていくべきなのか、生き方が問われてくる。
けれど、人として生きていく上で大切なこと、根本的なことは、そうそう変わるものではない。
人を愛し、助け、励まし、慰めていく、それらの思いを禁じるルールなど、ありえないはずである。
イエス様は、御名を汚したとの訴えにより、十字架にかけられて殺された。
しかし、そもそも、御名をたたえること、がこの戒めの本質的な意味であったはずである。
神は人間を救う事の出来る唯一のお方、そのことを救われた人間が称えること、がこの戒めの持つ本来の意味であり、そのような戒め言葉が悪用されて人殺しが行われたのである。
しかし、この出来事のゆえに、私たちの救いが完成したのである。
なんとも不思議な事ではあるが、せめて私たちの間にあっては、神の戒めによって、人を陥れたり、迫害したり、殺したりといったことに用いる口実として悪用してはならないだろう。
イエス様は、全ての人を救うために十字架で死んで下さった。
私たちが仲たがいしたり、あまり好きではない人のためにも死んで下さっている。
どんな生き方ができるかわからないが、神がその人を愛し、救おうとされたことには変わりがないことを覚え、せめて私たちにできることを、できる範囲で全うしていきたいものである。
何もできないのなら、こう祈ろう。
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。