イザヤ 30:15 まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。
30:16 お前たちは言った。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに あなたたちを追う者は速いであろう。
30:17 一人の威嚇によって、千人はもろともに逃れ 五人の威嚇によって、お前たちは逃れる。残る者があっても、山頂の旗竿のように 丘の上の旗のようになる。
30:18 それゆえ、主は恵みを与えようとして あなたたちを待ち それゆえ、主は憐れみを与えようとして 立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
詩篇 51:3 神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。
51:4 わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。
51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。
51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。
51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み 秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。
51:10 喜び祝う声を聞かせてください あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
51:11 わたしの罪に御顔を向けず 咎をことごとくぬぐってください。
51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。
51:13 御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください。
ヘブル 4:1 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
4:2 というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
4:4 なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
4:5 そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。
4:6 そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、
4:7 再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。
4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。
4:9 それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
4:10 なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
4:11 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。
4:12 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
4:13 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
イザヤ書の箇所には「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と記されている。
神に信頼して、静かに時を待つ、ということは、信仰が試されるし、忍耐も必要であろう。
しかし、多くの人が拙速な答えを求めて自ら行動し、神の応えとして納得しようとしてしまうのである。
何も応えがないのが答えではなく「今はその時ではない。神の時を待て」というのが答えであり、神は我々に待つようにと応えておられることもある。
神の恵みに信頼し、安心して憩うことは、安息に与ることとつながっており、パッと見は、ただ休んでいるだけ、人によっては怠けているだけのようにしか見えないこともあろう。
けれど、人間のいかなる業よりも、神のなさる恵みの業のほうがはるかに素晴らしいことを知っているならば、神が私たちに何を見せてくれるのかを期待しつつ、神の御業を待ち望むことができるのならば、それが好ましいことではないだろうか。
そのような姿勢で神の時を待つ者にできることは祈る事である。
お願いばかりの祈りではなく、神の御心を求め、受け入れ、そして喜ぶ祈りである。
神の恵みの約束に信頼し、安心し、委ねて、その時を待とうではないか。
かみが備えられた安息の時は、必ず約束されているのだから。