マラキ 3:19 見よ、その日が来る 炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
3:20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように 躍り出て跳び回る。
3:21 わたしが備えているその日に あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。
3:22 わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため ホレブで掟と定めを命じておいた。
3:23 見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
3:24 彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。
詩篇 125:1 都に上る歌。 主に依り頼む人は、シオンの山。揺らぐことなく、とこしえに座る。
125:2 山々はエルサレムを囲み 主は御自分の民を囲んでいてくださる 今も、そしてとこしえに。
125:3 主に従う人に割り当てられた地に 主に逆らう者の笏が置かれることのないように。主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように。
125:4 主よ、良い人、心のまっすぐな人を 幸せにしてください。
125:5 よこしまな自分の道にそれて行く者を 主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。イスラエルの上に平和がありますように。
マルコ 9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
9:10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
9:11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
9:12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
9:13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
バプテスマのヨハネは、来るべきメシアを迎えるために、その準備のために人々に罪の悔い改めを説いていた。
彼の働きは律法のそれである。
一方、イエス様の働きは、人々の罪を贖うために、自らの命を犠牲にして十字架で死なれるためであった。
イエス様は、私たちの身代わりとなって死んで下さったのであり、それによって我々の罪は赦され、救われる。
まさに、イエス様の働きは福音である。
福音が福音として理解することができるために、律法の言葉が必要であり、イエス様の十字架の死が我々の罪のためであるということを知るために律法の言葉が必要なのである。
ガラテヤ3:21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。
3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。
3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。
3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
律法の言葉は、私たちにとって厳しいものであるが、それによってキリストの十字架の意味がわかり、信じて受けとめ、そして救いに入れられるのであるのなら、喜んで律法の言葉も聞くべきであろう。
そして、そのあとに必ず福音の言葉も聞きたい。
そんな風に考えると、ヨハネの働きや出現の時期は、イエス様の働きの直前に活動すべき預言者であったということがよく分かるし、絶妙のタイミングであったということが伺えるのである。
自分自身も、律法と福音もさることながら、全ての言葉や行いを、絶妙のタイミングで行えるものとなりたいものである。