エレミヤ 1:4 主の言葉がわたしに臨んだ。
1:5 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」
1:6 わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
1:7 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。
1:8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」と主は言われた。
1:9 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ 主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に わたしの言葉を授ける。
1:10 見よ、今日、あなたに 諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し あるいは建て、植えるために。」

詩篇 85:2 主よ、あなたは御自分の地をお望みになり ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。
85:3 御自分の民の罪を赦し 彼らの咎をすべて覆ってくださいました。
85:9 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
85:10 主を畏れる人に救いは近く 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
85:11 慈しみとまことは出会い 正義と平和は口づけし
85:12 まことは地から萌えいで 正義は天から注がれます。
85:13 主は必ず良いものをお与えになり わたしたちの地は実りをもたらします。
85:14 正義は御前を行き 主の進まれる道を備えます。

使徒 11:19 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。
11:20 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。
11:21 主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。
11:22 このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。
11:23 バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。
11:24 バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。
11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、
11:26 見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。

ステファノの殉教をきっかけに、多くのクリスチャンたちが迫害を恐れて、各地へ散らばって行くことになり、それが後の世界宣教へと広がっていくきっかけとなって行くのである。
もちろん、迫害を恐れて逃れて行ったのだから、新たな土地では、信仰をひた隠し、ひっそりと生きようとしていたかもしれない。
けれど、主イエス様を信じて救われた人たちは、その信仰を捨て去ることは無かったし、自分を偽って生きるよりは、正々堂々と信仰者として生きる道を選んでいったのであろう。
それにより、キリストの福音が各地へ伝えられていくことになったのであろう。
最初は井戸端会議のような、おしゃべりから始まったかもしれない。
どんな会話でも、人が語る内容には、その人の信念が現れてくるし、隠そうとしても、救い主を信じて生きている人の信仰は、ふつふつとあふれ出てくるのであろう。
私たちも、無理に伝道を進めて行こうとしなくても、普通の生活を続けて行くことで、自然とキリストの福音を証していくこともできるのだろう。
そのためには、自分の生活環境の中で、近しい人とのおしゃべりくらいから始めても良いのかもしれない。
機会があれば、福音を証すればいいし、機会が与えられないのであれば、無理に証をしようとしなくても良い。
かえって押し売り感が強すぎると、拒絶される事もあるだろうから。
周りの人は、案外、私たちのことをよく見ている。
だから、キリストを救い主として信じる者として、自然体で生きて行けば良い。
主なる神様は、私を私として創られたお方であり、私らしく生きることが最善なのだから。

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