申命記 9:25 わたしは、四十日四十夜、主の御前にひれ伏した。主があなたたちを滅ぼすと言われたからである。わたしはひれ伏して、
9:26 主に祈って言った。「主なる神よ。あなたが大いなる御業をもって救い出し、力強い御手をもってエジプトから導き出された、あなたの嗣業の民を滅ぼさないでください。
9:27 あなたの僕、アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こし、この民のかたくなさと逆らいと罪に御顔を向けないでください。
9:28 我々があなたに導かれて出て来た国の人々に、『主は約束された土地に彼らを入らせることができなかった。主は彼らを憎んで、荒れ野に導き出して殺してしまった』と言われないようにしてください。
9:29 彼らは、あなたが大いなる力と伸ばされた御腕をもって導き出されたあなたの嗣業の民です。」
10:1 そのとき、主はわたしに言われた。「あなたは、前と同じように、石を切って板を二枚造り、山に登ってわたしのもとに来なさい。また木の箱を作りなさい。
10:2 わたしは、あなたが前に砕いた板に書かれていた言葉をその板に書き記す。あなたはそれを箱に納めるがよい。」
10:3 わたしがアカシヤの木で箱を作り、石を切って前と同じように二枚の板を造り、それを手に携えて山に登った。
10:4 主は、集会の日に、山で火の中からあなたたちに告げられた十戒と全く同じものを板に書き記して、それをわたしに授けられた。
10:5 わたしは身を翻して山を下り、あらかじめ作っておいた箱に板を納めた。それは今も、主がわたしに命じられたとおりそこにある。
詩篇 1:1 いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
テトス 2:6 -7同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教えるときには、清廉で品位を保ち、
2:8 非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。
2:9 奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、
2:10 盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。
2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、
2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
2:15 十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。
人は一度聞いたこと、学んだこと、覚えたことは、ずっと自分の身についていると勘違いしがちである。
しかも、全て悟ったような気になり、自分の考え方や感じ方も変わってきているのに、気が付かないでいることがある。
年齢を重ねれば、若かった頃とは考え方も行動も違うのに、いつまでも同じことができていると思っているが、そうではない。
体力が衰えているように、思考力、判断力、感性など、様々なことが衰えている。
それに気が付かないままに振舞っていると、横柄だったり、わがままだったり、自己中心的な言動ばかりが目立つようになっていくのであろう。
というのも、最近、自分では気が付いていないけれど、周囲の人をつまづかせてばかりいる、らしいからである。
もはや人前で語ることは、潮時を迎えているのかもしれないが、そういう状況だからこそ、立ち止まり、じっくりと自分自身を冷静に客観的に振り返ってみることが必要であろう。
申命記の箇所では、エジプトから救い出されたイスラエルの民が、しばらくすると心をかたくなにして神に反抗し、神の怒りをかってしまったために、モーセがとりなしたことが記されているが、それに対する神の応えは、以前シナイ山で与えられた律法の言葉を再び与える、というものであった。
つまり、前と変わっていないのである。
神はいつでも変わらぬお方であり、以前と同様「御言葉に聞け」と仰せられる。
そう考えると、若かった頃と今とでは、自分自身は随分と変わったかもしれないが、神は常に変わらず語りかけておられる。
聞く側の心や態度の問題なのだろう。
申命記 9:7 あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。
9:8 ホレブにいたとき、あなたたちが主を怒らせたので、主はあなたたちに向かって激しく憤り、滅ぼそうとされた。
9:9 わたしが石の板、すなわち主があなたたちと結ばれた契約の板を受け取るため山に登ったとき、わたしは四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった。
9:10 主は、神の指で記された二枚の石の板をわたしにお授けになった。その上には、集会の日に、主が山で火の中からあなたたちに告げられた言葉がすべてそのとおりに記されていた。
自分では主なる神様に従ってきていたつもりだったが、実際には背き続けてきただけであった。
それでもなお主なる神様は、愚かな私をも見捨てられることなく「御言葉に聞け」とだけ仰せられ、持ち運んで下さった。
きっとこれからも失望させることばかりなのだろうけれども、その都度「御言葉に聞け」と語りかけて下さるのだろう。
御言葉に聞けば、神がどれほどの犠牲を支払って、この私を救おうとしてくださったかが解き明かされる。
ただただ、申し訳なさと有難さの入り交ざった複雑な心境ではあるが、そこに残るのは「御言葉」と「私」である。