ナホム 2:4 勇士の盾は赤く 戦士は緋色の服をまとう。戦の備えをする日に 戦車の鋼鉄は火のように輝き 槍は揺れる。
2:5 戦車は通りを狂い走り、広場を突き進む。その様は松明のように輝き 稲妻のように走る。
2:6 将軍たちは召集されるが、途上でつまずく。人々は城壁へと急ぎ、防御車を据える。
2:7 流れに面した門は開かれ、宮殿は揺れ動く。
2:8 王妃は引き出され、衣をはがれて連れ去られた。侍女たちは鳩のような声で嘆き、胸を打つ。
2:9 ニネベは、建てられたときから 水を集める池のようであった。しかし、水は流れ出して 「止まれ、止まれ」と言っても だれも振り返らない。
2:10 「銀を奪え、金を奪え。」その財宝は限りなく あらゆる宝物が溢れている。
2:11 破壊と荒廃と滅亡が臨み 心は挫け、膝は震え すべての人の腰はわななき すべての人の顔はおののきを示した。
2:12 獅子の住みかはどこにいったのか。それは若獅子の牧場だった。獅子がそこを去り 雌獅子と子獅子が残っていても 脅かすものは何もなかった。
2:13 獅子は子獅子のために獲物を引き裂き 雌獅子のために絞め殺し 洞穴を獲物で 住みかを引き裂いた肉で満たした。
2:14 見よ、わたしはお前に立ち向かうと 万軍の主は言われる。わたしはお前の戦車を焼いて煙とし 剣はお前の若獅子を餌食とする。わたしはお前の獲物をこの地から断つ。お前の使者たちの声はもう聞かれない。
詩篇 145:1 賛美。ダビデの詩。 わたしの王、神よ、あなたをあがめ 世々限りなく御名をたたえます。
145:2 絶えることなくあなたをたたえ 世々限りなく御名を賛美します。
145:3 大いなる主、限りなく賛美される主 大きな御業は究めることもできません。
145:4 人々が、代々に御業をほめたたえ 力強い御業を告げ知らせますように。
145:5 あなたの輝き、栄光と威光 驚くべき御業の数々をわたしは歌います。
145:6 人々が恐るべき御力について語りますように。大きな御業をわたしは数え上げます。
145:7 人々が深い御恵みを語り継いで記念とし 救いの御業を喜び歌いますように。
145:8 主は恵みに富み、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに満ちておられます。
2コリント 13:5 信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。
13:6 わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。
13:7 わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。
13:8 わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。
13:9 わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。
13:10 遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。
人はひとたび落ち始めると、転がり落ちるように堕落の道を進んでいってしまう。
なかなか途中で立ち止まるということが難しい。
だから、常に自己を吟味し、過ちに気づいたなら、すぐにそこから立ち返ることを行うべきである。
ヘブル3:7 だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
3:8 荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。
3:9 -10荒れ野であなたたちの先祖はわたしを試み、験し、四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』
3:11 そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と。」
3:12 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。
3:13 あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――
3:14 わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――
3:15 それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」
イスラエルの民は、まさか一時の神への反抗によって、四十年もの月日を荒野で過ごすことになろうとは思わなかっただろう。
我々も「これくらいならいいか」といった安易な気持ちで過ちを見過ごしていれば、気が付けば、それが何年、何十年と続いてしまうことにもなりかねない。
悔い改めるのは、今日であり、今である。
今、神の御前に立ち、神と共に生きる。
そんな信仰の日々を過ごしていくうちに、信仰の生涯が導かれていくのであろう。