イザヤ 66:18 わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。
66:19 わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。
66:20 彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。
66:21 わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。
66:22 わたしの造る新しい天と新しい地が わたしの前に永く続くように あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと 主は言われる。
66:23 新月ごと、安息日ごとに すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと 主は言われる。
詩篇 87:1 コラの子の詩。賛歌。歌。 聖なる山に基を置き
87:2 主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される シオンの城門よ。
87:3 神の都よ あなたの栄光について人々は語る。 セラ
87:4 「わたしはラハブとバビロンの名を わたしを知る者の名と共に挙げよう。見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも この都で生まれた、と書こう。
87:5 シオンについて、人々は言うであろう この人もかの人もこの都で生まれた、と。」いと高き神御自身がこれを固く定められる。
87:6 主は諸国の民を数え、書き記される この都で生まれた者、と。 セラ
87:7 歌う者も踊る者も共に言う 「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。
マタイ 8:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
8:4 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」
8:5 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
8:6 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
8:7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
8:8 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
8:9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
8:11 言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
8:12 だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
8:13 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
本日与えられている旧約聖書の日課の箇所には、かつて神を知らず、神に敵対していたような民であったタルシシュ、プル、ルド、トバル、ヤワンといった名前が記され、異邦人であるラハブ、バビロン、ペリシテ、ティルス、クシュといった名前も記されている。
これらの民も、イスラエルと同様に、神のみ救いに与り、神の国に入れられるようになるであろうとのメッセージが語られていると言えよう。
マタイ福音書の箇所では、ローマから遣わされている軍隊の百人隊長とその部下の癒しの出来事が記されているが、彼らもまた、イスラエルの民ではない異邦人に属する者と言えよう。
むしろ、12節では、自分たちこそ神の国の闇と自負するイスラエルの民の方が、神の国からはじきだされてしまうことになるといったことが語られている。
もちろん、全てのイスラエル人がそうだというわけではないし、全ての異邦人も同様であろう。
イスラエル人であろうと異邦人であろうと、神を信じて神のみもとに集う者たちは、栄光の神の御国に入れられるのであり、そこへ入る事のできる人に資格や能力、出自の差などはないということなのである。
神の国入ることができるかどうかは、全て、神の恵みの御業によるものであり、我々はただ、その事実を信じることだけによるのである。
ローマ 3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
人は神の恵みにより、信仰によって救われるのである。
この一事をしっかりと受け止め、平安のうちに歩んで行きたいものである。