エレミヤ 26:20 主の名によって預言していた人がもうひとりいた。それは、キルヤト・エアリムの人、シェマヤの子ウリヤである。彼はこの都とこの国に対して、エレミヤの言葉と全く同じような預言をしていた。
26:21 ヨヤキム王は、すべての武将と高官たちと共に彼の言葉を聞き、彼を殺そうとした。ウリヤはこれを聞いて、恐れ、逃れて、エジプトに行った。
26:22 ヨヤキム王はアクボルの子エルナタンを、数人の者と共にエジプトに遣わした。
26:23 ウリヤはエジプトから連れ戻され、ヨヤキム王の前に引き出された。王は彼を剣で撃ち、その死体を共同墓地へ捨てさせた。
26:24 しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤを保護し、民の手に落ちて殺されることのないようにした。
詩篇 31:2 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 恵みの御業によってわたしを助けてください。
31:3 あなたの耳をわたしに傾け 急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。
31:4 あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き
31:5 隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。
31:6 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。
ヨハネ 8:48 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、
8:49 イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。
8:50 わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。
8:51 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
8:52 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。
8:53 わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」
8:54 イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。
8:55 あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。
8:56 あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
8:57 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、
8:58 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
8:59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。
世界中の人々を恐れさせている新型コロナウイルスであるが、誰が重症化し、死に至るのか、はっきりとしたことが分かっていないために、ますます恐怖心を煽っていると言える。
しかし、そう言った事は、どんな病気でも同じだし、交通事故で無くなる人や、他の病気で亡くなる人の方がはるかに多いし、日本などは、自ら命を絶つ人の数の方がはるかに多かったりする。
冷静に考えれば、それほど致死率の高い病気というわけでもなく、ことさらに恐怖心を煽る事は好ましいことではないとも言えるかもしれない。
いずれにせよ、人は死を恐れている。
誰も経験したことがないから、それがどういうものなのか分からないから怖いのであろう。
だから、できれば生きていたいと思うし、人が心の奥底で願っていることは、永遠に死ぬことのない命を生きること、なのであろう。
コヘレト 3:11 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
3:12 わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と
3:13 人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは 神の賜物だ、と。
しかし、残念ながら、全ての人は、いつか死を迎える。
だれにもそれを避けることはできない。
しかし、イエス様は違う。
イエス様はご自分のことを、神の栄光を現わすために遣わされたメシアであることを語り、自らを「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」と述べられたのである。
この「わたしはある」という言葉は、モーセがシナイ山で神の律法を与えられた時、その時、主なる神様が自らの名前を名乗られた名前と同じである。
「わたしはある」とは、永遠に存在しているものであり、同時に、全ての存在するものを有らしめる者、すなわち、全てのものを創造され、生かすことのできるお方であるということである。
当然それは、自らが「神」であると宣言しているようなものである。
だから、ユダヤ人たちは、イエス様のことを「神を冒涜するもの」と考えたし、それ故に十字架にはりつけにして殺そうとしたのである。
イエス様は、すべての生ける者に命を与え、永遠に至る命を与えて下さるお方である。
薬やワクチン、家や食べ物、社会的な地位や名誉などによって、私たちの永遠の命を守ることはできないが、イエス様の救いの約束だけが、私たちを永遠に生かしうる唯一のものであることを覚え、イエス様の語られた言葉を信じて歩んで行きたいものである。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」