出エジプト 2:19 彼女たちは言った。「一人のエジプト人が羊飼いの男たちからわたしたちを助け出し、わたしたちのために水をくんで、羊に飲ませてくださいました。」
2:20 父は娘たちに言った。「どこにおられるのだ、その方は。どうして、お前たちはその方をほうっておくのだ。呼びに行って、食事を差し上げなさい。」
2:21 モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。
2:22 彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったからである。
2:23 それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。
2:24 神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。
詩篇 23:1 賛歌。ダビデの詩。 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。
1ペトロ 2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
2:10 あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。
2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
2:12 また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。
今年のゴールデンウィークは、ステイホームとの標語のもとに、外出や旅行などを控えようということが推奨されている。
我が家も、もう何週間も家族が家にいて、自宅で過ごす日々を送っている。
幸い、我が家の家族は、みな仲が良いし、互いに適度に気を遣いながら過ごすこともできるので、取り立てて苦労しているわけではない。
しかし、ご家庭によっては、普段、家にいない人がずっと家に居続けることで、いつもと違ってギクシャクしたり、あるいは、不平不満がたまって、ドメスティックバイオレンスに発展してしまうようなこともあるかもしれない。
自分が一番くつろげるはずの家や家族であるはずなのに、どうしてこんなことになるのか?などと悩む方もおられることだろう。
自分が気兼ねなくくつろげる場所がある、ということは、とても幸いなことである。
しかし、一人暮らしならまだしも、家族など、自分以外の人と暮らしている場合は、やはり、自分一人だけが快適に暮らせることだけを求めていても、なかなか上手くいかないもの。
自分以外の家族も同様に、気兼ねなくくつろいでいたいのである。
そのことに思いが寄せられるかどうかで、相手に対する思いも、自分に対する家族の思いも違ってくるのだろうし、家庭での居心地も随分と変わってくるのだろうと思う。
主なる神様は、ご自分の御子イエス様の命の代価を支払って、私たちの罪を赦し、救って下さった。
そして、もはや、何の悩みも労苦も死も存在しない御国へと私たちを招き入れて下さっている。
しかし、そこは、自分だけがくつろげるために、他の人たちが我慢したり、気を遣わせたりするようなところではない。
むしろ全く反対で、私たちもまた、他者への気配りや心遣いをもたらしていくところである。
1コリント6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
私たちは、主イエス様の命がけの贖いの代価を支払って神に買い取られたものである。
もはや、永遠に失われることのない命を与えられたものである。
だから、恐れることなく、他者の救いのために生きていけるのである。
自分の幸いや快適だけを追い求めるのではなく、どうすれば、神と人とに喜んで頂けるかということを考えながら生きていきたいものである。