ヨナ 2:2 ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、
2:3 言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると わたしの声を聞いてくださった。
2:4 あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み 波また波がわたしの上を越えて行く。
2:5 わたしは思った あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。
2:6 大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。
2:7 わたしは山々の基まで、地の底まで沈み 地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ あなたは命を 滅びの穴から引き上げてくださった。
2:8 息絶えようとするとき わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き 聖なる神殿に達した。
2:9 偽りの神々に従う者たちが 忠節を捨て去ろうとも
2:10 わたしは感謝の声をあげ いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。
2:11 主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。
詩篇 114:1 イスラエルはエジプトを ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り
114:2 ユダは神の聖なるもの イスラエルは神が治められるものとなった。
114:3 海は見て、逃げ去った。ヨルダンの流れは退いた。
114:4 山々は雄羊のように 丘は群れの羊のように踊った。
114:5 どうしたのか、海よ、逃げ去るとは ヨルダンの流れよ、退くとは
114:6 山々よ、雄羊のように 丘よ、群れの羊のように踊るとは。
114:7 地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に ヤコブの神の御前に
114:8 岩を水のみなぎるところとし 硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。
マタイ 12:38 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。
12:39 イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
12:41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
12:42 また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
ヨナは、ニネベの町に宣教に行くようにとの神の命令に背き、反対方向のタルシシュ行きの船に乗り、嵐の中、海に投げ込まれ、大きな魚に飲み込まれてしまう。
彼は、魚の腹の中で祈りの言葉を述べているが、その祈りは、神に助けを求めたところ、神は自分を救ってくれた、というようなことが語られているように見える。
しかし、彼の祈りをよく見てみると
苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった。
陰府の底から、助けを求めると わたしの声を聞いてくださった。
となっているが、苦難の中、陰府の底から助けを求めて祈り求めているが、「助けて下さった」とは語られていない。
ただ、彼の祈りを「聞いて下さった」とだけ記されているのである。
しかも、それに続くヨナの言葉は、
あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み 波また波がわたしの上を越えて行く。
わたしは思った あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。
というように、これはヨナが完全絶望し、自らの死を悟っている様子が伺えるのである。
もしかしたら、ヨナは、4章でも述べているように、自分など生きていても仕方がないし、死んだ方がマシくらいに思い、そのような投げ槍な心も抱えたまま祈ったのかもしれないのである。
そうであるならば、「主なる神よ、もはや生きている価値などない、この小さな者の命を、どうか取りあえげください」と祈り、そうなったから、神は私の祈りを聞いて下さったと述べているのかもしれないのである。
しかし、同時に、やはりヨナは全ての人が持っているのと同じ「それでも生きていたい」という願いも持っていた。
7~8節の祈りの言葉がそれを物語っている。
しかし、わが神、主よ あなたは命を 滅びの穴から引き上げてくださった。
息絶えようとするとき わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き 聖なる神殿に達した。
ヨナは正直である。
そして、とても不器用であり、率直である。
それが彼の良いところなのかもしれないし、悪いところでもあろう。
それが人間というものなのかもしれない。
神は、かくもひねくれていて、「死にたいけど生きたい」といったような複雑な思いを抱く私たちの祈りを、全て聞き届けてくださり、死んでいるようでも生きている、死を味わっても生かされている、そんな人生を導いておられるのかもしれない。
ぶつぶつとつぶやきの多い者であるが、我々の心の全てをご存知で、すべての祈り心に耳を傾け、すべてに応えて下さる主なる神様の御救いを信じて歩んでいきたいものである。