サムエル上 15:32 サムエルは命じた。「アマレクの王アガグを、わたしのもとに連れて来なさい。」アガグは、喜んで彼のもとに出て来た。これで死の苦しみは免れる、と思ったからである。
15:33 しかし、サムエルは言った。「お前の剣は女たちから子供を奪った。そのようにお前の母も子を奪われた女の一人となる。」こうしてサムエルは、ギルガルで主の御前にアガグを切り殺した。
15:34 サムエルはラマに行き、サウルはギブアの自分の家に向かった。
詩篇 23:1 賛歌。ダビデの詩。 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。
ヨハネ 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
最近はずっとコロナウイルス感染拡大のニュースで持ち切りである。
一日も早く終息してくれることを望むけれども、もはやそのような状況でないのかもしれない。
人が生きていく以上、他者との交流は避けることはできないし、それゆえ、感染拡大も避けられないのだろう。
ワクチンや薬が開発されさえすればと考える人もいるかもしれないが、結局は、その人の免疫力次第であったりもする。
そう考えていくと、今回のウイルス禍は、起こるべくして起こったものかもしれないし、改めて、人が生きるとはどういうことなのかということを考え直す時が来ているのではないかと思う。
医療技術が発達し、生活環境も向上し、人間の技術を駆使すれば、このウイルスとの戦いにも勝てると考える人がいるかもしれないが、逆に、それらが仇となって感染を拡大させているという側面もあるのではないだろうか。
昨日は公園で遊んでいる親子を見たとき、こういう生き方のほうが人本来の姿に近いものかもしれないと思わされた。
マタイ 4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
神の言葉のうちにこそ、まことの命はある。
神の言葉と共に生きる人こそ、本当の意味で「生きている」人と言えるのであろう。