出エジプト 16:27 七日目になって、民のうちの何人かが集めに出て行ったが、何も見つからなかった。
16:28 主はモーセに言われた。「あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。
16:29 よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。」
16:30 民はこうして、七日目に休んだ。
16:31 イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。
16:32 モーセは言った。「主が命じられたことは次のことである。『その中から正味一オメルを量り、代々にわたって蓄えよ。わたしがあなたたちをエジプトの国から導き出したとき、荒れ野で食べさせたパンを彼らが見ることができるためである。』」
16:33 モーセがアロンに、「壺を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい」と言うと、
16:34 アロンは、主がモーセに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた。
16:35 イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。

詩篇 95:1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
95:2 御前に進み、感謝をささげ 楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
95:3 主は大いなる神 すべての神を超えて大いなる王。
95:4 深い地の底も御手の内にあり 山々の頂も主のもの。
95:5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。
95:6 わたしたちを造られた方 主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
95:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
95:8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように 心を頑にしてはならない。
95:9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。
95:10 四十年の間、わたしはその世代をいとい 心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
95:11 わたしは怒り 彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

ヨハネ 4:1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
4:2 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

出エジプト16章の箇所には、イスラエルの民が安息日にもマナを集めに出かけて行ったものの、何も得ることができなかったことが記されている。
そのぶん、前日には二日分のマナが与えられており、安息日にはしっかりと休むように促されていたはずである。
イスラエルの民は、熱心だったから安息日にもマナを集めようとしたのではない。
少しでも多く集めたいと言う欲望が彼らの行動を駆り立てていたのであろう。
働きすぎることは、収入を増やしたいからというのも大きな理由の一つであろう。
しかし、きちんと休みを取らなければ、疲れが蓄積し、かえってパフォーマンスも悪くなる。
人はそんなに強くはない。
休みが必要である。
実に、イエス様も疲れを覚えられ、シカルの井戸辺で休んでおられた。
だれか、水をくんでくれる人がやって来るのを待っておられた。
もちろん、そこにやって来た女性に水をくんでもらうことを助けてもらおうとされたわけではないのだろうが、イエス様がそこで休んでおられたから、彼女はイエス様と出会い、救いの恵みに与ることができたのである。
働くことで誰かを幸せにすることもあるだろう。
しかし、休むことで誰かを救いへと導くこともあるのかもしれない。
もちろん、休んでばかりというわけにはいかないが、週に一度はしっかりと安息の日を守り、神の救いにあずかる時を大切に過ごしたいものである。

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