申命記 23:22 あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなく、それを果たしなさい。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求め、あなたの罪とされるからである。
23:23 誓願を中止した場合は、罪を負わない。
23:24 唇に出したことはそれを守り、口で約束した誓願は、あなたの神、主に誓願したとおりに実行しなさい。

24:10 あなたが隣人に何らかの貸し付けをするときは、担保を取るために、その家に入ってはならない。
24:11 外にいて、あなたが貸す相手の人があなたのところに担保を持って出て来るのを待ちなさい。
24:12 もし、その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない。
24:13 日没には必ず担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝ることができ、あなたを祝福するであろう。あなたはあなたの神、主の御前に報いを受けるであろう。
24:14 同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。
24:15 賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。

詩篇 119:9 どのようにして、若者は 歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。
119:10 心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから 迷い出ることのないようにしてください。
119:11 わたしは仰せを心に納めています あなたに対して過ちを犯すことのないように。
119:12 主よ、あなたをたたえます。あなたの掟を教えてください。
119:13 あなたの口から与えられた裁きを わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。
119:14 どのような財宝よりも あなたの定めに従う道を喜びとしますように。
119:15 わたしはあなたの命令に心を砕き あなたの道に目を注ぎます。
119:16 わたしはあなたの掟を楽しみとし 御言葉を決して忘れません。

ヤコブ 2:1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
2:2 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。
2:3 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、
2:4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
2:5 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
2:6 だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。
2:7 また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。
2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
2:9 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。
2:10 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。
2:11 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。
2:12 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。
2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

世の中にはお金持ちの人もいれば、貧しい人もいる。
残念ながら、お金持ちの人のところには、モノも人も多く集まってくる。
ある程度は仕方がない面もあるが、お金持ちだからという理由だけでその人との付き合いをしようとする人を見ると、あまり良い気はしない。
何等かの益があると考えて行動するからであろう。
そうのような人は、お金持ちの人を見ているのではなく、その人が持っているお金を見ているのであろう。
人を愛するのではなく、お金を愛している、それだけのことなのである。
そういう人は貧しい人を相手にしない。
なんの見返りも期待できないからであろう。
多くの人は、周りの人を、自分にとって有益な道具となりうるかとか、もっと悪く言えば、人をキャッシュディスペンサーかATMくらいにしか見ていない人もいるかもしれない。
けれど、イエス様は違う。
見返りがあるかどうかは全く関係なく、人を愛し、しかも、人を救うために自らの命をささげられたのである。
私たちは、この方に見られているし、この方を見ている。
イエス様に愛されている人として、お金持ちであるとか、貧しい人であるとか関係なしに、人として見、人として付き合っていく。
人を憐れむということは、何か特別な事ではなく、人を人として見る、そういうことなのではないだろうか。

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