使徒 8:4 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。
8:5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。
8:6 群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。
8:7 実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。
8:8 町の人々は大変喜んだ。
8:9 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。
8:10 それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。
8:11 人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。
8:12 しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。
8:13 シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
使徒8章には、エルサレムの教会で大きな迫害が起こり、それを逃れるために、使徒たち以外の大瀬の信徒たちがユダヤとサマリヤへと逃れていったことが記されている。
しかし、その結果として、イエス・キリストの救いを告げる福音の言葉が、イスラエル全土にも広がって伝えられていくことになったのである。
フィリポもその一人であった。
おおよそ、急に始まった迫害を逃れて出かけて行ったのであろうから、ほとんど家財や荷物など持ち合わせていなかったであろうし、これからどうなるのか、不安や恐れでいっぱいでもおかしくはなかったはずである。
しかし、フィリポは希望に満たされ、むしろ、迫害によって散らされたことが福音宣教の機会となるくらいに考え、これを好機と考えていたのかもしれないのである。
人生いろんなことが起こるし、何が幸いするかはわからない。
凝り固まった固定観念だけに縛られていると、大切なことも見失ってしまうこともあろう。
どんなことが起ころうとも、その境遇を好機と捉え、今だからできること、ここだからできること、自分だからできること、どうすれば人々に幸いをもたらすことができるのかということを探りながら、幸いな救いの約束の言葉を分かち合っていけたらと思う。
それが本当の意味での福音の宣教ということなのかもしれない。
フィリピ4:10 さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。
4:11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
4:12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
4:13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。