ヘブル 11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。
11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、
11:25 はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、
11:26 キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。
11:27 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。
11:28 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。
11:29 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。
11:30 信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。
11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。
これらの記述において、信仰によって取った行動として語られていることは、多くの場合そうするよりほかに生き延びる方法が無かったものが多い。
つまり、生き延びるための必死の行動である。
そのようなことなら、我々も日々の生活の中で、どうにかして生きようと必死にもがいているわけで、同じことのように見える。
今日、終わるかも知れない人生の中で、どうにかして明日を生き延びようとしているのは、明日に希望を見いだしているからに他ならない。
明日も生きていたい、そのためには、今どう行動するべきかを考えていく、それも明日に希望を見いだしている信仰の生き方なのだろう。
明日、自分がどうなっているかは分からないが、主なる神様は、明日、私を生かして下さると信じて今日を生きる。
人生とは、その繰り返しなのかもしれない。