コロサイ 3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
3:15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
3:16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
3:17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
最近、明らかに間違っているなあと思っても、相手が頑なに主張するなら、もう否定することはしないでおこうと考えるようになった。
きっと、そのように思わずにはいられない何等かの理由があるのだろうし、無理に否定したところで、関係が悪くなるばかりだから。
何が正しいことか、議論し合ったりすること自体、悪いことではないのだろう。
しかし、相手にも思いがって、立場があって、弱さもある。
そのことを受け入れていくことは、相手の意見に賛同することとは違うフェーズなのだろう。
憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
そもそも、顔も違えば、考え方も違う人が集えば、意見が合わなくて当然なのだ。
それでも、そこに憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして、愛を加えていくことで、人と人とは結ばれていくのだろう。
難しいけれども、不可能なことではない。
自分のうちにキリストに居ていただく。
まずはそこからである。