ルカ 4:31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
4:32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
4:33 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
4:34 「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
4:35 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
4:36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」
悪霊に取りつかれた人は、イエス様が何者であるか知っている。
このことは意外にも思えるが、重要なことであろう。
我々の国に住む多くの人々はイエス様のことを知らない。
ある人は、悪霊の力がこの国を支配しているからだと考えるかもしれない。
けれど、悪霊に取りつかれた人たちでさえ、イエス様のことを知っている。
イエス様を知らないのは、イエス様を受け入れようとしないからであり、イエス様を受け入れようとしないのは、その人自身の罪の問題である。
悪霊は人に罪を犯させようと誘惑するだけで、実際に罪を犯すのは人間である。
人間は、罪の責任も誰かに押し付けようとしがちであり、悪魔の存在などは、その恰好のターゲットになりがちであるが、そのように考えてくれることを悪魔も願っているのだろう。
罪の責任を悪魔に委ねるのか、それとも、罪の処罰をイエス様に委ねるのか、その結果は180度も異なる。
罪の処罰をイエス様に委ねるなら救われる。
悪魔もそれを知っているから、自分に罪の責任を押し付けるように誘ってくるのだろう。
間違えないようにしたいし、その先の結果にも十分気を付けていきたいものである。