エフェソ 5:21 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
5:22 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
5:23 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
5:24 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
5:25 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、
5:27 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
5:28 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
5:29 わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
5:30 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
5:31 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」
5:32 この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。
5:33 いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさいと語られている。
それは、もちろん「人間が」「キリストに対する姿勢を根拠にしており、妻が夫に仕えることを勧めることにかかっていると言える。
しかし、夫は妻を愛しなさいと語られているところは「キリストが」「人間を」愛されたように、夫は妻を愛するようにと語られており、明らかに夫に求められていることのほうが難しい?ことと言えるのかもしれない。
つまり、キリストが私たちを愛して下さった愛は、自らの命を捨ててまで愛して下さった愛であり、これ以上大きな愛はないというほどの愛である。
夫はそれほどの愛をもって妻を愛せるのかと問われているのである。
「そんなことできるわけがない」と言った方が正しいかもしれないが、それでもあえて、夫は妻を、キリストが私たちを愛して下さったように愛せよ、と命じるのである。
とうていできそうにないことを命じられている、のではなく、それほどに徹底的に妻を大切にせよとのことであろう。
その点、妻が夫にどれだけ仕えているかといったことと天秤にかけて言い争いをするようなものではないことも明らかである。
なぜなら、私たちは、キリストに愛されたことを知って、キリストに仕えて行こうと思うからである。
要するに、夫がまず率先して妻を愛せよ、ということなのであろう。
まずはそこからである。

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