エフェソ 3:14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。
3:15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。
3:16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、
3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
3:18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
3:20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、
3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
聖書について詳しく知らなかった異邦人へも救いの約束が広がっていったことは、ただただ神の恵みによるものである。
そして、その恵みによる救いの素晴らしさを知った者は、キリストがどのように私たちを愛し、救って下さったのかという事を知り、同じように、他者を愛するように導かれていく。
それがここで語られていることなのであろう。
しかし、いくら内なりる人が強められ、キリストの愛に根差して生きようと思っても、根は罪人である。
キリストと同じような一方的な愛で他者を愛し尽くすことは難しいのが現実である。
それでも、少しでもキリストの愛にならい、イエス様がどう思われているかという思いに寄り添い、その思いに動かされていくことが大切なのだろう。
はじめから完全な愛など期待されているとは思わない。
それでも、少しでも、イエス様の愛に近づきたいと思う。
そう考える時、私たちにできる最も大いなる愛の業は、イエス様の愛をお伝えすることなのではないかと思う。
それが異邦人への宣教者として生涯をささげたパウロの生き方から学べることなのかもしれない。