ヘブル 11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
11:14 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。
11:15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。
11:16 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
11:18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。
11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
11:20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。
11:21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。
11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」との御言葉のごとく、アブラハムやイサク、ヤコブやヨセフもまた、神が備えて下さっている祝福を信じ、信仰によって生きていったのである。
たとえそれが生きている間にかなえられなかったとしても、神がそれを与えて下さると信じ切っていたのであり、信仰とは、そういうものなのであろう。
昨日は、教会の礎となって宣教団体の日本宣教70周年を記念する式典が行われたが、70年前に日本にやってきた最初の宣教師は、きっとこの国に福音が伝わることで、多くの人々が救われるだろうことを信じていたことであろう。
その祈りは、まだまだ結実の途上にある。
これからも続いていくし、これで祈りが適えられたなどとは思わないだろう。
信仰とは、これからも続いていくものである。