ヨハネ 20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

見ないで信じる人は幸いである、とイエス様は仰せられる。
確かにその通りではあるが、実際には、トマスのような人のほうが普通である。
誰もが信じがたい現実の前に戸惑い、時に、実際に触れてでも確かめてみたくなるし、何等かの「しるし」や「結果」を求めてしまうのだろう。
しかし、だからこそ「皆で信じる者は幸いである」と仰せられるのであろう。
イエス様は「見てから信じる者は不幸だ」とは仰せられていない。
あくまで「見ないで信じる者になりなさい」と勧められているのであろう。
信じがたい心と、信じたいという心のはざまで揺れ動きながらの歩みであるが、それももた信仰者の生き方に違いない。
願わくは、見ないで信じる者となれますようにと祈りつつ、イエス様のもとへ近づいていく者でありたいものである。

Write a comment:

Your email address will not be published.