詩篇 61:1 【指揮者によって。伴奏付き。ダビデの詩。】
61:2 神よ、わたしの叫びを聞き わたしの祈りに耳を傾けてください。
61:3 心が挫けるとき 地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください。
61:4 あなたは常にわたしの避けどころ 敵に対する力強い塔となってくださいます。
61:5 あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り あなたの翼を避けどころとして隠れます。〔セラ
61:6 神よ、あなたは必ずわたしの誓願を聞き取り 御名を畏れる人に 継ぐべきものをお与えになります。
61:7 王の日々になお日々を加え その年月を代々に永らえさせてください。
61:8 王が神の前にあってとこしえの王座につき 慈しみとまことに守られますように。
61:9 わたしは永遠にあなたの御名をほめ歌い 日ごとに満願の献げ物をささげます。

祈りのスタイルには、様々なものがある。
願い、とりなし、つぶやき、叫びなど。
ここでの祈りは、叫びから始まっている。
叫びというくらいだから、大きな声で叫んでいることだろう。
ふと自分を振り返ってみて、それほどに大きな声で祈り叫んだことがあっただろうかと思う。
ほとんどの場合がつぶやきか、小さな声での祈り。
もちろん、声には出さなくても、吠え長けるような心の叫びを述べたこともあっただろう。

今年の高校野球の岡山県代表の創志学園は、前評判も高く、もしかしたら良いところまで勝ち上がるのではないかと期待していたが、投手のマウンド上での雄たけびを審判に注意されてリズムを崩し敗退してしまった。
雄たけびが悪かったのか、審判の注意の仕方がどうだったのか、今となっては残念なことである。
高校球児たちの闘う神聖な場所でマナーに反するということらしいが、神聖な場所である神殿ではどうなのだろう。
静かな神殿で大声をあげれば、きっとすぐに連行されるに違いない。
けれど、本来は、そういう場所なのではないだろうか。
楽器を用い、大きな声で賛美を歌うのは結構だが、人が大声で祈ると「うるさい」とか「めざわり」とか言われるのだろう。
大声で叫びたいときだってあるだろう。
そういったことも赦される環境があっても良いのではないかと思う。
いろんな人がいて、叫ばないと上手くできない人もいるだろうし、静かに過ごしたい人もいるだろう。
一人一人が尊重され、どちらも赦しあえる、そんな寛容な社会であってほしいと願う。

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