詩篇 56:1 【指揮者によって。「はるかな沈黙の鳩」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがガトでペリシテ人に捕えられたとき。】
56:2 神よ、わたしを憐れんでください。わたしは人に踏みにじられています。戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ
56:3 陥れようとする者が 絶えることなくわたしを踏みにじります。高くいます方よ 多くの者がわたしに戦いを挑みます。
56:4 恐れをいだくとき わたしはあなたに依り頼みます。
56:5 神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が わたしに何をなしえましょう。
56:6 わたしの言葉はいつも苦痛となります。人々はわたしに対して災いを謀り
56:7 待ち構えて争いを起こし 命を奪おうとして後をうかがいます。
56:8 彼らの逃れ場は偶像にすぎません。神よ、怒りを発し 諸国の民を屈服させてください。
56:9 あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。
56:10 神を呼べば、敵は必ず退き 神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。
56:11 神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。
56:12 神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。
56:13 神よ、あなたに誓ったとおり 感謝の献げ物をささげます。
56:14 あなたは死からわたしの魂を救い 突き落とされようとしたわたしの足を救い 命の光の中に 神の御前を歩かせてくださいます。
表題に「ダビデがガトでペリシテ人に捕らえられた時」と記されている。
現実的に見れば、この後、自分は裁きにかけられ、殺されるであろうことは容易に推測できる。
そんな状況下にありながら、ダビデの神への祈りは賛美に満ちている。
強がりなのだろうか。
いや、必ずしもそうではなく、そう祈らざるを得なかったのではないだろうか。
人は絶望の淵に立たされれば、死を覚悟し、神に助けを求めるのだろう。
しかし、ダビデとって、神は救いの神であり、必ず救って下さる方であり、そう祈らざるをえなかっただろう。
しかし、それよりも、迫りくる恐れと不安の中、それをかき消すためにも、このように祈るほうが少しは落ち着いたのかもしれない。
信仰とは、強がりのような面もあるかもしれないが、それも含めて信仰なのではないだろうか。
強くて完全な信仰など本当は存在しないのかもしれない。
怖くて寂しくて辛くて悲しくて、それを紛らわすように祈る、そんな心の状況も、りっぱな信仰ではないだろうか。
自分に信仰があるかどうかでさえ自信がなく、自分も裁かれるのではないかといった不安な思いが少しでもあるのなら、そんな時こそ、聖書のみ言葉に帰り、十字架のイエス様を見上げようではないか。
何もできない私の代わりに裁かれて下さったイエス様がおられるのだから、自分は救われていることになるのだから。