詩篇 53:1 【指揮者によって。マハラトに合わせて。マスキール。ダビデの詩。】
53:2 神を知らぬ者は心に言う 「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
53:3 神は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
53:4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
53:5 悪を行う者は知っているはずではないか パンを食らうかのようにわたしの民を食らい 神を呼び求めることをしない者よ。
53:6 それゆえにこそ、大いに恐れるがよい かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を 神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。
53:7 どうか、イスラエルの救いが シオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき ヤコブは喜び躍り イスラエルは喜び祝うであろう。

神が創られた世界に生きる人間は、みな罪を犯し、神のみ旨に適う人など一人もいない。
それは真実であろう。
もし自分がこの世界を創造した神ならば、さっさとこんな世界は取りやめにし、滅ぼしてしまうことだろう。
しかし、主なる神様はそおうはなさらない。
それどころか、一人でも神の御もとに立ち返る者が起こされるのを忍耐して待ち続け、そして行動される。
御子キリストの贖いの御業ががそれであるが、それすらも、強制的にではなく、信じて従う人の心と行動を尊重して下さる。
なんと憐れみ深いお方であろう。
この世界が今日もなお存続し、そこに人が生きていること自体、神の愛の証なのかもしれない。
忍耐して待ち続けることも、大きな犠牲を支払うことにつながること。
だから、我々も、できる限りの行動はしつつも、強制的に人を従わせるのではなく、自発的に行動したいと思うようになるまで忍耐して待つことも大切にしていきたいものである。
その時には、主なる神様も、大いに喜ばれることだろう。
人が神の救いを信じるようになることの歩みは遅く、いつでも神に反逆しているようだけれども、決して不可能なことではない。

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