1テモテ 3:1 「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」
3:2 だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。
3:3 また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、
3:4 自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。
3:5 自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
3:6 監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。
3:7 更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。
教会は神の家族と言われる。
その教会の群れを守り、導いていく働きを担うことは、一つの家族を養っていくようなものと言える。
しかし、家族とは言え、そこに集う一人一人は、それぞれに個性も違うし、あくまで個人個人の集まりである。
ただ、同じ家で共に暮らす、そのような幸いなつながりを持つものとして、共に生きているのである。
時には意見の違うこともあるだろうし、そのような一人一人を一つの家族として結び合わせていくことは、とても重要な働きの一つであろう。
一方で、そんな一つの家族が、世の中からも浮いてしまわないよう、教会以外からも良い評判を得ているということも重要である。
家族が共に生きていくために、家族が共通の意識をもって結び合わせていくことと同時に、家族の外の人とのつながりもまた大切にしていくことで、結果として、家族をも守ることになる。
どちらにも気を配っていくことは、一見、矛盾することのように見えることもあるかもしれないが、共通の意識、個々の違い、そして、外との違いと外とのつながり、いずれも丁寧に扱って行かなければならないこと。
家族のコミュニケーションに、世の中と同じ手法を持ち込んでも無意味だし、世の中とのお付き合いに家族のやり方を持ち出すのも無意味なこと。
コミュニティの意味や違い、コミュニケーションの方法や範囲など、一つ一つ向き合いながら、その場に最もふさわしいことが行えるようにと願うものである。