ガラテヤ 5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
5:3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5:5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、”霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
5:7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。
5:8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。
5:9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。
5:10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。
5:11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。
5:12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。
5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

キリストの十字架の贖いにより、全ての罪が赦され、そのことを信じるだけで救われる、というのがキリスト教の中心的な教理であるが、人間は常に自分の業や行いとの関係を気にしてしまい、かつての「行いによる救い」という考え方へ引きずられていきがちである。
ガラテヤの教会には、まさにそのような動きが広まっており、パウロはそれに一石を投じるために、このような手紙を記しているのである。
パウロの教えは、とりたてて目新しい教えではない。
これまで、教会の中で教えられ続けてきたものである。
しかし、なぜか人は、それだけでは満足せず、常に目新しい教えを求めようとする。
飽きっぽいからなのか、常に新しい刺激を求めているからなのかもしれない。
刺激はすぐに飽きる。
そしてまたさらに新しい刺激を求めて人はさまよう。

ヨハネ4章には、水を汲みにきたサマリヤの女性とイエス様との会話が記されているが、この女性は、愛されることを求め続けては、失敗を繰り返し、それでも愛を求めてさまよってきた人生が如術に表されている。
新しい刺激を求めても、ますます渇きを増していくだけである。
イエス様の救いは、そういう悪循環から救い出すためのもの。
根本的な愛を知った時、人は、それで十分満たされるはずである。
それなのに、人はまた新たな刺激を求め、同じ過ちを繰り返していくのである。
自由を得るために召しだされた者、その人は、周囲の人たちへ愛を与える者として生きて行く。
まるで、わきあがる泉のように枯れることはない。
そのような人生を可能としてくださるイエス様の救いの約束の言葉に、常に耳を傾け、信頼して従って行きたいものである。

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