ヨハネ 21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
21:24 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

イエス様と同じ時代に生きた弟子たちは、彼らが見たこと、聞いたことを、そのまま記録し、聖書として残されることとなっていった。
しかし、イエス様のなさったことを逐一、細かく書いたのではなく、必要と思われることを記録したのであろう。
それは、イエス様について知るべきことが十分に語られている、ということなのだろう。
我々は、神様のことについて、もっともっと知りたいと思うこともあるが、それはおおよそ、神のことではなく、自分の身の回りに起こることであったりする。
神について語られるべきことは、余すところなく語られており、聖書を読めば、神について知りうることは全て語られている、ということなのだろう。

ヘブル
1:1 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、
1:2 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
1:3 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。

神のなさることは、我々の救いのために御子をお遣わしになったということ。
それが全てである。

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