ゼファニヤ 1:1 ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒズキヤの子である。
1:2 わたしは地の面から すべてのものを一掃する、と主は言われる。
1:3 わたしは、人も獣も取り去り 空の鳥も海の魚も取り去る。神に逆らう者をつまずかせ 人を地の面から絶つ、と主は言われる。
1:4 わたしは、ユダの上と エルサレムの全住民の上に手を伸ばし バアルのあらゆる名残とその神官の名声を 祭司たちと共に、この場所から絶つ。
1:5 屋上で天の万象を拝む者 主を拝み、主に誓いを立てながら マルカムにも誓いを立てる者
1:6 主に背を向け 主を尋ねず、主を求めようとしない者を絶つ。
1:7 主なる神の御前に沈黙せよ。主の日は近づいている。主はいけにえを用意し 呼び集められた者を屠るために聖別された。
1:8 主のいけにえの日が来れば わたしは、高官たちと王の子らを また、異邦人の服を着たすべての者を罰する。
1:9 その日、わたしは敷居を跳び越える者すべてを 主君の家を不法と偽りで満たす者らを罰する。
1:10 その日が来れば、と主は言われる。魚の門からは、助けを求める声が ミシュネ地区からは、泣き叫ぶ声が もろもろの丘からは、大きな崩壊の音が起こる。
1:11 マクテシュ地区の住民よ、泣き叫べ。商人たちはすべて滅ぼされ 銀を量る者は皆、絶たれるからだ。

主なる神様は、ノアの時代の洪水のごとく、地の表から、悪に満ちた世界を一掃すると仰せられる。
もちろん、ノアに約束された通り、水をもって一掃されることはないが、悪に満ちた世界は、いつか、神の御手によって清められなければならないのだろう。
一掃される対象として挙げられているのは、偶像を礼拝する者たち、のようである、
偶像礼拝とは、木や石などに刻んだ像を神として拝んだり、異教の神々、といった捉え方をしがちであるが、もっと本質的に、自分の都合や願いを成就させるために神に祈り、神を動かそうとする行為そのものこそが偶像礼拝に他ならない。
だから、いくら神が何でも祈りを聞き届けて下さるからと言って、自分のベガ以後とばかりを神に述べているのでは好ましい祈りとはならない。
私の思いや願いではなく、主なる神の御心がなりますように、そう祈ること、すなわち、神のなさることに「アーメン私も同意します」との心があって、はじめて正しい祈りとなるのである。
もちろん、何でも祈って良いのだが、「主よ、御心ならば」と付け加えて祈るようにしたいものであるし、祈った通りにならなくても、その答えが主の御心であると受け取っていくことが大切なのだろうと思う。

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