ハバクク 1:12 主よ、あなたは永遠の昔から わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために 彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため 彼らを立てられた。
1:13 あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら 捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら 黙っておられるのですか 神に逆らう者が、自分より正しい者を 呑み込んでいるのに。
1:14 あなたは人間を海の魚のように 治める者もない、這うもののようにされました。
1:15 彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ 網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。こうして、彼らは喜び躍っています。
1:16 それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ 投網に向かって香をたいています。これを使って、彼らは豊かな分け前を得 食物に潤うからです。
1:17 だからといって、彼らは絶えず容赦なく 諸国民を殺すために 剣を抜いてもよいのでしょうか。

神が裁きを行われる時、必ずしも神を信じ畏れる者たちが用いられるというわけではない。
時には、どうしてこのような者たちが?と思うような、神をも恐れぬ不届きな者たちが用いられることもある。
そんな時、私たちは理不尽な思いに駆られるのだが、そもそも、神の裁きを受ける者に、何が正しくて、何が間違っているなどと言う資格などないはずなのだから、神がどのような民を用い、どんな裁きをなされようとも、我々人間には、それをどうこう言うことはナンセンスでもある。
むしろ、裁きを行う者に、正しい心があり、愛や憐れみの心がいくらかでもあるならば、その裁きは中途半端なものになりがちである。
徹底した裁きを行うのであるならば、神をも恐れぬ者らが用いられた方が好ましいこともあるだろう。
心ある者が裁く側につくのも辛いことであるし、非道な行為を行った者として歴史に名を残されるとしたら、神を恐れぬ邪悪な者たちが用いられる方が納得もできよう。
そう考えるならば、やはり神は、愛と憐れみに満ちたお方である、ということなのだろう。
裁く側も、裁かれる側も、互いに納得できる方法で、神は裁きを行われる。
唯一、御子キリストの十字架の贖いだけは、心ある方が裁く側に立ち、裁かれる側の者に対する配慮のため、その裁きを徹底して行われたと同時に、自らを罰することで、裁かれるはずの者を完全に赦してくださっている。
畏れ多いことである。
神の裁きの本当の姿がここに示されているのである。

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