マタイ 21:23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
21:24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
21:25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。
21:26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
一昨日から教職者の集まりに来ている。
集会の中で、どういう人が働き人として召され、用いられていくべきかについて話し合ったが、本人が明確に神に召されているという召しを持っていることに加えて、教会からも、この人に働きを担って欲しいと思われるような召しも必要、ということであった。
果たして、今日集まっている方々は、ふさわしいのか、といった問題は置いておくとして、み言葉を語る資格というものがあるのなら、はっきりとした定義のようなものがあれば良いのだが、実際には、案外難しい。
一方で、資格があるかどうかにかかわらず、話に説得力があり、聖書に忠実で、こういう方にメッセージを語って欲しいと思われるような方々も大勢いる。
案外、そういう方は、謙遜さも身に着けておられるため、み言葉を語ることを拒まれたりするのかもしれない。
上手くいかないものである。
ただ、「正規の召し」という言葉にも表されている通り、「なぜこのような方が」と思われるような方を神が召されることもある。
神のなさる業は、ただただ不思議とか言いようがない。
語ることが赦されているのなら、それをも用いておられる、ということなのだろう。
そんな一人の語り人の言葉に忍耐しつつ、耳を傾けて下さる方々に感謝するものである。