マタイ 21:12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
21:13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」
21:14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
21:15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
21:16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
21:17 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。

いわゆる「宮清め」の記述であるが、こういう事は、いつの時代でも起こりうることであり、本来は、自浄作用が求められるところ、それでは一向に改善されないために、強制的に外部の手が加えられることで、清め(あるいは改善)が進められるのであろう。
実は、人間の心の清めが一番厄介である。
自浄作用など期待していても、いつまでたっても良くはならないし、むしろ、悪くなる一方であろう。
仮に、強制的に外部(他人)から指摘されれば、逆上したり、ひどい物である。
人が己の罪を悔い改めるということは、いかに困難なことか。
人の意思によっては、ほぼ永遠に無理であろうことに、キリストは立ち向かわれ、そして、罪の悔い改めを促すような、完全なる赦しを実現された。
我々人間の悔い改めが始まるのを待っていても、いつまで経っても起こらないのを承知の上で、先に償いと赦しを成し遂げられ、もはや、我々には罪を悔い改めるよりほかない状況に、恵みとして導いてくださっているのであろう。
ここまでしてくださって、どうして悔い改めないという選択を選ぶことができるだろうか。
あとは、幼子のような素直な心で、この事実を受け入れ、そして、悔い改めていくことではないだろうか。
本来の順番とは違うように見えるけれども、我々が生まれる前から、キリストは十字架で死んでいてくださったのであるということを覚えたい。

Write a comment:

Your email address will not be published.