イザヤ 5:25 それゆえ主は御自分の民に向かって激しく怒り御手を伸ばして、彼らを撃たれた。山々は震え民のしかばねは芥のように巷に散った。しかしなお、主の怒りはやまず御手は伸ばされたままだ。
5:26 主は旗を揚げて、遠くの民に合図し口笛を吹いて地の果てから彼らを呼ばれる。見よ、彼らは速やかに、足も軽くやって来る。
5:27 疲れる者も、よろめく者もない。まどろむことも、眠ることもしない。腰の帯は解かれることがなくサンダルのひもは切れることがない。
5:28 彼らは矢を研ぎ澄まし弓をことごとく引き絞っている。馬のひづめは火打ち石のようだ。車輪は嵐のように速い。
5:29 彼らは雌獅子のようにほえ若獅子のようにほえうなり声をあげ、獲物を捕らえる。救おうとしても、助け出しうる者はない。
5:30 その日には、海のごう音のように主は彼らに向かって、うなり声をあげられる。主が地に目を注がれると、見よ、闇が地を閉ざし光も黒雲に遮られて闇となる。

昨日は、大阪で宗教改革500周年記念の礼拝があり、出席してきた。
礼拝に先立ち、ルターに関するセミナーも行われ、ルターの働きや人となりなどが紹介された。
若き日のルターは、神の怒りの前におびえる日々を過ごしていたという。
聖書を読めば読むほど、また、奉仕をすればするほど、自分の罪深さばかりが思い知らされ、神の怒りだけが大きくなるように感じていたようである。
しかし、ルターは、そこから、この大いなる神の怒りから解放されるためには、人の業ではない、神の恵み、つまり、キリストの十字架の贖いによる救いこそが聖書の語る福音であることに目を開かれていき、偉大な宗教改革へと発展していったのである。
神の怒りは、全くないのではない。
大いに神は怒っておられるけれども、同時に、その怒りを御子キリストの十字架に向けておられるからこそ、神は我々に憐れみの心をもって臨んで下さるのである。
むしろ、神は最初から憐れみの心をお持ちの方だから、御子キリストを十字架に死なせてまでも、私たちを愛し、救おうとしてくださったのであり、この事実を信仰を持って受け止めていく時、私たちの救いが実現するのである。
だから、神の怒りを混じる時は、それこそ、キリストの十字架を見上げるべきであろう。
あそこまで徹底的に処罰して下さったからこそ、完全に赦されているということを知ることができるのだから。

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