マタイ 14:34 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。
14:35 土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、
14:36 その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
ゲネサレトの村の人たちは、大勢の病人たちをイエス様のところに連れてきて、せめて着物のすそにだけでも触れさせてほしいと頼み、触れたものは癒されたという。
着物のすそとは、おそらく、着物の四隅につけられた房のことであろう。
民数記15:37 主はモーセに言われた。
15:38 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。
15:39 それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。
15:40 あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。
15:41 わたしは、あなたたちの神となるために、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの神、主である。
着物に房をつけているのは、ユダヤ人として、聖なる民に属し、神のすべての恵みを覚え、律法を守ることのしるしでもあり、アイデンティティを示す象徴でもあったものと思われる。
そのような房に触れるということは、自分もまた、神の民として、神の恵みにあずかる者として数えられることを意味していたことであろう。
もちろん、貧しい人などは、そのような房をつける余裕などなかったかもしれない。
そんな彼らにとって、イエス様の着物の房に手を触れるということは、自分の着物には房は付いていなくても、自分もまた同じ神の民の一員である、ということを示す行為でもあったと言えるのだろう。
イエス様は、そのような民を癒されたのである。
神の恵みと憐れみに寄りすがるもの、そのような者こそが真の聖なる民である、ということなのだろう。