マタイ 11:20 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
11:21 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。
11:22 しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
11:23 また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
11:24 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

イエス様は、数多くの奇跡が行われたにも関わらず、悔い改めなかったことをお怒りになったと記されている。

人は病が癒されたり、願い事があると、神に祈り求める。
しかし、それらの願いが適えられても、その後、神のもとに立ち返る人は、ごくわずかである。
本当は、神のもとに立ち返ること自体が重要であり、そのために癒しがなされたりするだけである。
癒しがなくても、神のもとに立ち返ることができるなら、そういう人の方が幸いであろう。
あるいは、助けを求めて祈っている時の方が、よっぽど神を求め、神に立ち返っているとするなら、イエス様からすれば、せっかくの癒しの業も、願い事を適えてあげることも、なんとも空しい気になるのではないだろうか。
もちろん、イエス様は私たちに苦しんでいなさいと願っているわけはない。
少しでも平安で、喜んでいた欲しいと願っておられるはずである。
ただ、奇跡が起ころうとも、起こらなくても、変わらず神を求める心を求めておられるのだろうと思う。
大切な事は、自分は正しいと思う高慢な心を悔い改め、神の赦しのもとに身を置いて平安を頂いて歩むこと、である。

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