創世記 3:20 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
3:21 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
3:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
3:23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
3:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

この箇所には、神が人間を憐れんで恵みを施したり、反対に警戒して厳しく対処したり、複雑な思いがにじみ出ているように思う。
アダムと女に皮の衣を作って着せられたことは、そこに神様の憐れみの心が表されている一方で、善悪を知る者となった人間は、命の木からも取って食べ、永遠に生きるものとなるおそれがあると言ってエデンから追い出し、土を耕すものとされるのである。
そして、エデンの東には、ケルビムときらめく剣の炎を置き、再び人間がそこへ入ることができないようにしてしまうのである。
神は厳しいのか、それとも愛のお方なのか。
もちろん、いずれもであろう。
ただ、神の厳しさは、愛ゆえの厳しさであることを思う。
人間が命の木から取って食べ、永遠に生きるものとなったなら、人は、もはや自分が神であるかのように思い上がり、神を必要としなくなるからであろう。
神を必要としなくなった人は、確かに永遠に生きるものとなるかもしれないが、善悪を知る者となっているがゆえに、悪に陥る危険性もある。
仮にそうなった場合、悪に心を奪われた人間は、永遠に悪を行い続けてしまう。
たとえ人間が永遠の命を手にしても、人間は神ではなく、神は唯一である。
科学技術、権力、富、地位や名声を手に入れた人間は、自らを神のように考えているかもしれないが、人は神ではない。
どんなに長く生きたとしても、本当は何もできない愚かな存在であり、神の憐れみによってはじめて生きられる者であるということを忘れてはならないのである。

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