ルカ 20:41 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
20:42 ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。
20:43 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と。』
20:44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
20:45 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。
20:46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。
20:47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

メシアはダビデの子だ、と言う言葉には、メシアはダビデ以下の存在であるという意味合いが含まれていたのであろう。
イエス様はそれに対して、ダビデ自身もメシアを主と呼んでいることを引き合いに出し、メシアこそ真の主、まことの王であるということを示されるのである。

この世には、様々な価値観や思想があり、誰もが自分の考えていることが正しいと信じている。
そうしなければ生きていけないからだろう。
ただ、それが本当に正しいかどうかは別の問題であり、間違いが分かった時、かなりの衝撃を受けるだろう。
その時、どう立て直すか、どう生きていくか、それからが本当は大切なのだと思う。
ただ過ちを認めるだけではなく、そこからどう赦され、生かされていくか、そのようなことを考えながら、主イエス・キリストの十字架と復活を思う。

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