神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。              ヨハネ3章16節

 

ルターが「小さな聖書」と呼んだ有名なヨハネ3章16節を含む箇所です。

神の愛の広さ高さ
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16)。神の愛は広い愛です。神様のみこころは、「一人も滅びないで、永遠の命を得る」ことです。また、神の愛は高い愛です。アブラハムは、自分の最愛の息子さえ神のために惜しまずにささげようとしました。まさに究極の信仰であり、究極の神への愛の姿です。そうであるとするならば、逆に、神がその「独り子」をさえ惜しまずにささげて下さったということは、神様がわたしたちをどれほどかけがえのない存在として愛しておられるかということを表しているのではないでしょうか。

光か闇か
では、すべての人がこの神様の愛を受けて、光の道を歩んでいるかというと、それはそうではありません。では、どうして、多くの人が光の道を歩むことができないのでしょうか。それは、この神様の愛を受け取ろうとしないからです。神様なしでやって行ける。自分の力と才能でやって行けると思ってしまうからです。またそれは、光よりも闇を好む罪の性質をわたしたちが持っているからです。わたしたちは、罪を覆い隠そうとするのでなく、自分の善行によって埋め合わせしようとするのでもなく、わたしたちの身代わりとして十字架で死んで下さったイエス・キリストを救い主と信じ、受け入れることを通して、わたしたちは、光の道へと踏み出して行くことができるのです。

光の道に歩み続ける
わたしたちは一度決断して光の道を歩み出したら、エスカレーターに乗ったように自動的に神様の祝福の道を歩めるのかというと、そうではありません。光の道に歩み続けなければなりません。わたしたちも、イエス・キリストを信じた後も、自分で何とかやれると思ってしまう自我が頭をもたげて来ます。光よりも闇を好む罪の性質が頭をもたげて来ます。そんな中で、イエス・キリストの十字架を見上げ、神様に立ち返り、立ち返って行くよう、わたしたちは召されているのです。

(前川隆一牧師)