わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。                           ヨハネ12章46節

 

今日の福音書の箇所は、「イエスを信じない者たち」と表題のつけられている部分、そして、「イエスのことばによる裁き」という表題のつけられている部分とです。36から43節の中で、三種類の人々が描かれています。イエス様のことを信じない人、信じた人、好意は持ちながら一歩を踏み出せないでいる人、その三種類です。

信じない人々
第一に、イエス様を信じない人々です。ローマ書2章28節で、「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され・・・」と記されています。神様は、人間の自由意志を認められるお方です。人間が、神様を認めようとしないなら、神様はそのこともお認めになるのです。その結果、人間は、まずます見るべきものが見えなくなり、心がかたくなになってしまうのです。つまり、神様を、イエス様を認めようとしない人間の高ぶり、高慢が暗闇をつくり出してしまうのです。わたしたちは、これらの人々を反面教師としたいと思います。そのためにたいせつなことは、絶えず絶えず、神様の御声に聴き従うことを通して、わたしたちの心を、霊を、柔軟に保っておくということです

神からの誉れより人間からの誉れの方を好んだ人々
第二に、イエス様に好意は持ちながら一歩を踏み出せないでいる人々です。彼らは「会堂から追放されるのを恐れ、フアリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだので」した(42~43)。わたしたちは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ人々の姿を反面教師としたいと思います。そのために、みことばを基準として歩み、自分を守るために線を引いて、ある場合にはそこから逃れるという知恵を身につけて行きたいと思います。

信じた人々
では、イエス様を信じた人は、暗闇を経験しないのでしょうか。人生の嵐を経験しないのでしょうか。そんなことはありません。この地上の人生を生きる限り、イエス様を信じていようといまいと、暗闇を経験し、嵐を経験します。けれども、その闇が深ければ深いほど、わたしたちは、イエス・キリストという光に導かれて歩むことができるのです。

(前川隆一牧師)