イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。               マルコ1章13節

 今日の聖書は、イエス様が荒れ野でサタンの試みをお受けになったできごとです。

荒野に赴かれたイエス
イエス様が過ごされたユダの荒れ野は、広大な荒れ野です。風光明媚な日本に住むわたしたちにとって、イメージを超えた世界と言えるかもしれません。では、この荒れ野というのはわたしたちからかけ離れた世界なのでしょうか。そうではありません。「東京砂漠」、人がひしめくようにいるにもかかわらず、砂漠のように感じる。荒れ野のように感じる、ということがあるのです。自然がつくり出す砂漠、荒れ野とともに、人間がつくり出す砂漠、荒れ野というものもあるのです。イエス様が荒れ野に赴かれた、それは、そのようなわたしたちの荒れ野の現実の中に入って来て下さったということなのでした。

荒れ野で試みに遭われたイエス
ではその荒れ野においてイエス様は何をなさったのでしょうか。それは、荒野においてサタンの試みをお受けになりました。「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」(13a)。40日間、それは、あのモーセに率いられたイスラエルの民が荒野をさまよった40年の40という数字を下敷きにしているとも言われます。イスラエルの民の40年、それは、神に対する不信頼の40年でした。その荒れ野において、イエス様が神様に信頼するテストをお受けになった、それが、この荒れ野のできごとでした。

荒れ野をパラダイスに変えられたイエス
第三に、イエス様の荒れ野の試みを通して、何がもたらされたのでしょうか。「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(13b)。ここに描かれているのは、イエス様と獣たちとが和らいでいる情景です。人間がつくり出す荒れ野、それはどこから始まったのでしょうか。それは、エデンの園において、アダムとエバが神に信頼することを捨てて禁断の木の実を食べたところから始まりました。それまで、人と獣とは和らいで生活していたのです。けれども、罪が入り込んだとき、人と神との関係、人と人との関係、人とその人自身との関係、そして人と自然との関係が壊されてしまいました。その失われてしまった世界を回復するためにお出で下さった救い主、それが主イエス様なのです。

(前川隆一牧師)