青谷教会六十年の歩みは「教え」、「宣べ伝え」、「いやされた」主イエスのお働きの継承です。動機はキリストの深いあわれみです。神様は「見よ、わたしの僕がいる」と私たちの注意を喚起します。「主の僕」には華やかさはありません。瀕死の者や弱い人を支えつくします。聖霊が共にあるからです。キリストとこの生き方は世界の隅々に伝えられねばなりません。今、同胞や世界の人々が待っています。私たち歩むべき道や計画が失われ、希望や信仰の灯は暗くなっていませんか。

信仰生活は主イエスを知る価値の一大転換に始まります(フィリピ3:8)。それは生ける神様の啓示、恵みによるのです。何か神秘的体験のことではありません。第一には、洗礼を受けることです(ローマ6:3、4)。罪と死、有限性を負う「私」が生涯に一度、キリストのあがないの十字架の死と復活を信じることです。このお方と一つにされ、いのちの交わりに与ることです。みことばと聖餐は洗礼によって新たに生まれた者が、終わりの日までキリストと共に歩むための真の食物です。

主イエスのご復活は私たちの日常に関係します。もし復活や永遠の生命がないとしたら、所詮人生は虚しいでしょう。主はよみがえられました。もはや、死と死後の世界が問題ではありません。永遠の生命に生かされた今の生活が輝き始めるからです。世にあって、真の個人の結び付き、キリスト者の愛の絆を確認するとき、天の御国を予め味わうのです。信仰生活の第二は証と伝道です。自己保存や自己拡張を目的としません。この異質な宗教土壌、混沌の世界に「キリストが内に形づくられるまで」苦しみを負うのです(ガラテヤ4:19)。

「収穫」は終わりのことです。終末の人々に伝道している切迫感・緊張感を失っていませんか。必要なのは世界大の収穫、刈り入れというビジョンです。「御国を来たらせたまえ!」と祈ると同時に、御国の働き手を送ってくださるように祈りましょう。放置され、失われていく人々への主イエスの深い憐れみ、刈り入れの大きさと緊迫感を覚え、兄弟と共に心合わせて祈りましょう。

(池上安師)