わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。      ヨハネ15章5節

 

信仰生活の祝福の秘訣、それは、人間のがんばりではなく、キリストとのつながりであるという、わたしたちの信仰生活の基本の基本を教えているたいせつな箇所です。

まことのぶどうの木
第一に、イエス様は「わたしはまことのぶどうの木」とおっしゃいました(1)。キリストというまことのぶどうの木につながることを通して、わたしたちは実を結ぶことができるのです。

刈り込み
第二に心に留めたい、それは、2節です。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」と言われています。実を結ぶためにたいせつなこと、それは、父なる神様の手入れを受けるということです。父なる神様の刈り込みを受けるということです。みことばによって、礼拝の生活を通して、そして、試練を通して、わたしたちは、父なる神様の刈り込みを受けるのです。

一つとされることを通して
第三に心に留めたいこと、それは、5節です。どこまでが幹で、どこからが枝であるのか見分けがつかない、それがぶどうの木です。それと同じように、キリストと一つとされることを通して、実を結ぶことができるのです。それは、人間の努力によってではありません。自分の思いを打ち明け、受け留めていただいてイエス様に従うことが求められています。そして、従ったときに、主のみわざを体験させていただけます。そのような積み重ねを通して、キリストと一つとされていくということを経験するのです。

ところで、枝は、悪い実しか実らない木の幹につながっている限り、よい実を実らせることは不可能なのではないでしょうか。けれども、接木という方法があります。十字架ですぱっと切られて血潮の出る救い主のいのちの切り口に、悔い改めた信仰の切り口をぴったり合わせる、そのことを通して、キリストのいのちがその人の内に流れ込んで来るのです。そして、それこそが洗礼ということなのです。

(前川隆一牧師)