わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。ヨハネ15章14節

 

今日の聖書は、「あなたがたはわたしの友である」(14)とイエス様がおっしゃっておられるところです。その前の13節で、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」ということが言われています。これを、だれがだれに向かって言ったことばであるかということが重要です。イエス様がわたしたちに、「友のために自分の命を捨てること」を求めておられるのでしょうか。そうではありません。わたしたちのために命を捨てて下さったイエス様が、わたしたちのことを友と呼んで下さるのです。

もう一つのこと、15節には、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われています。「僕」と「友」ということが言われています。これは、いったい何を言おうとしておられるのでしょうか。それを解く鍵となるのが「罪」ということです。罪というものは、人を支配する力を持っています。キリストを信じる、それは、罪を主人としていた生き方から、キリストを主人とした生き方への方向転換をわたしたちにもたらしてくれます。そのわたしたちに、イエス・キリストは言われるのです、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。イエス様は、わたしたち一人一人のために十字架で命を捨ててくださいました。わたしたちは、イエス・キリストにあって、罪の奴隷から、キリストの僕としていただくのです。さらに、そのわたしたちを友と呼んで下さるのです。このことが、自分自身のこととして理解されたなら、その人の人生は大きく変わるのです。

百歳を過ぎて現役の医師として活躍しておられる日野原先生は、「命それは、時間である」とおっしゃいました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。わたしたちのために命をささげて下さったキリストの愛に応えて、文字通り、人のために命をささげる生涯を送る方もあります。けれども、多くの場合、「命を捨てる」それはすなわち「時間を与える」ことなのです。イエス様は必要な人に対して、必要な時間を与えることのできる人として下さるのです。そのようにして、友情を育み、人生を豊かに生きる人とイエス様がして下さるのです。

(前川隆一牧師)