復活のイエスが3回目に弟子たちに現れたとき、夜通し漁をしたが何も取れなかった。しかしイエス様の言葉に従うと大漁であった。あなた方を人間をとる猟師にしようといわれたとき、弟子たちは何もかも捨てて従ったが、十字架に架けられるとなったとき、恐れて散ってしまった。しかし主イエスは決して彼らを見捨てられず、以前にまさる大きな使命を与えようとされた。失望のなかにある弟子たちが、まさに人を採る漁師としてこのときから押し出されていこうとしていた。

彼らが陸に上がるとそこにはイエス様ご自身が既に朝食を準備しておられた。復活のイエスが明らかになったとき、驚きと恵みがあふれる。この朝の食事は、主とともにある新しい幕開けの朝の朝食であり、まさに「回復のしるし」でもあった。私たちは聖餐でイエスが備えてくださった和解と回復の食事にあずかり、これによって、確信をもって力づけられ、イエスの福音を人々に伝えることができるようになる。
復活のイエスに出会い、弟子たちはまったく変わった。この恵みの出来事ゆえに、世界もまた私たちの生きる意味もまったく変わった。まさに弟子たちの生涯に起こったように、私たちも主イエスの復活の力を信じ、それゆえに慰めと希望をいただき、世に押し出されていく。

礼拝とは神の国を生きるリハーサルだ。神の国のリハーサルを通して、私たちは神の言葉を自分の生き方に染み込ませていくのである。(J.E.バークハート)
神の言葉、神の愛を、自分の生き方にしみこませて、押し出されていったのがペトロであり、ヨハネであり弟子たちであった。あなたは私を愛するか、あなたは本当に私を愛するかという問い、今日、復活のイエスはこの問いを私になさる。必要でかつ十分な真理が書かれている。どうか、復活の主の恵みのなかで、押し出されていくものでありたいと願います。

(伊藤和史長老)