イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
 ヨハネ9章41節

イエス様が生まれつきの盲人をいやされたできごとです。

霊の開眼
イエス様は、生まれつき目が見えなかった人の目をおいやしになりました。でも、ここで話は終わりませんでした。この人は、たいへんな議論に巻き込まれ、その果てに、神殿から追い出されてしまいます。けれどもそこで、この人はもう一度、イエス様とお会いすることになります。その後、「我々も見えないということか」と反発するファリサイ人に向かって、イエス様は、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」そうおっしゃいました。ここで、何が起こっているのか。それは、この生まれつき目が見えなかった人は、肉眼の目が開かれるとともに、心の目、霊の目が開かれたということ。それに対して、ファリサイ派の宗教的指導者たちは、霊の目が閉ざされてしまったということです。

指導者たち
どうして、ファリサイ派の宗教的指導者たちは、霊の目が閉ざされてしまったのでしょうか。神様の恵みを受け取るための基準というものがあります。それは、神様の前に「愚かになる」ということです。ファリサイ派の宗教的指導者たちは、神様の前に、愚かになることができないで、霊の目が閉ざされてしまったのでした。

生まれつき目が見えなかった人
それに対して、生まれつき目が見えなかったこの人は、神様の前に、愚かになることを通して、霊の目が開かれる経験をしました。では、この生まれつき目が見えなかった人は、なぜ、愚かになることができたのでしょうか。彼は、因果応報の世界に生きていました。彼は、人に裁かれながら、自らも人を裁いて生きて来たその罪を認め、愚かになって、それを担って下さるお方として、イエス様を見、信じたのでした。わたしたちは、愚かになって、神の救いを見、神の救いに与る者としていただくのでしょうか。それとも、愚かになることを拒み、神の救いを見ることができない者に留まるのでしょうか(コリント第一の手紙1章18節)。

(前川隆一牧師)

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